新潮文庫
医者は探りをいれた後で、手術台の上から津田を下ろした。
「矢張穴が腸まで続いているんでした。この前探った時は、途中にはんこんの隆起があったのでつい其処が行き留まりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日疎通を好くする為に、其奴をがりがり掻き落としてみると、まだ奥があるんです。」
小説の冒頭というのは、その小説の第一印象を与えるもので、それぞれ読者をその小説の世界に引き込む工夫が凝らされるものだが、この作品ではなんと津田の痔の検査シーンから始まる。
この津田由雄という男、「それから」の長井代助同様、高等遊民的で、勤めてはいるが、京都にいる父親から金をもらって優雅に暮らしている。代助と違ってお延という外に向かって愛していることになっている妻がいる。ところが父親から「今月は送金できないから、そっちで都合つけてくれ。」と云ってきた。津田は金の借り先を求めて動き回り、それがいろいろ影響を及ぼし始める。
吉川夫妻=勤め先の社長夫妻で、その中立ちで津田はお延と結婚した。
藤井=津田の父の弟、真事という男の子がいる。お金という結婚の決まった女中がいる。
岡本=お延の叔父(義理)叔母夫妻、継子、百合子に二人娘がいる
堀=津田の妹お秀が嫁いでいる。
小林=三流雑誌社に勤め、苦しい生活を送っているが、裕福なインテリ津田等にない強みを持っており、韓国に渡るにつき、津田から金を巻き上げようとしている。
お延は津田を愛してはいたが、どこまで愛さされているのか自信がなかった。お秀はきりょうが良くて堀にもらわれたが、そんなことを気にするお延を気に入らなかった。その上、生活が苦しいと云いながら手に大きな指輪を填めているのもしゃくの種だった。津田の困っている金を用立てようと二人がはりあった。結果、二人とも用意し、お延のもとには2倍の金が入ったのだが、お秀がその不満を吉川夫人にぶつけた。
津田はお延と結婚する前、吉川夫人の仲立ちで清子と云う女性と婚約寸前まで行っていた。夫人は病床の津田を訪れ「お延を愛していないんではないか。清子さんを忘れられないのではないか。」と尋ね、さらに清子さんがいまある温泉に静養に滞在しており、あなたも痔の手術後の療養のために行ったらどうか、とたきつける。
津田は「一緒に連れてって。」と頼むお延をようようごまかして一人で出かける。そしてひなびた宿での清子との出会い…。話はそこで未完のまま終わっている。
調子の良いエゴイズムが、人間ドラマの中にふつふつと描きだされている作品。
この作品は、それまでに書かれた漱石作品と趣をかなり異にしている。まず主人公の津田がかなりずるい、いやな所のある男である。それにもまして小林は悪い男であることを自認し、それを武器にして生きようとする男である。これまでの作品は、たとえば「それから」の長井代助にしたって、人の細君を取るけれども、ずるいという風には見えない、人として弱いが故にそうなったまでである。
次ぎにこの作品が多元的な人間関係を描いている点が目立つ。ある時には津田の立場から、ある時はお延やお秀の立場から描かれている。主人公がはっきりせず、複雑に絡み合う人間関係の中にドラマを求めようとしている。その中に漱石は人間観、ことに女性観を展開しようとしている。その見方は現在では古くさく、とても共感できる者ではないが、
そのチャレンジ精神に脱帽する。
・ 局部麻酔・・・・・コカイン(118p)
・ 手前勝手な男としての津田がお延の胸にのぼった。自分の朝夕尽くしている親切は、随分精一杯なつもりでいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないかしらんという、普段からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。(133p)
・お延は自分で自分の夫を撰んだ当時のことを憶い起こさない訳には行かなかった。・・・・自分の料簡を余所にして、他人の考えなどを頼りたがった覚はいまだかってなかった。(188p)
・昨日の見合いに引き出されたのは、容貌の劣者としてあんに妹の器量を引き立てるためではためではなかったろうか。(196p)
・ただ愛するのよ。そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込みはいくらでもあるのよ。(210p)
・男と女は始終引っ張りあわないと、完全な人間になれないんだ。(219p)
・すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏しにくくなる。今までの牽引力がたちまち反発性に変化する(221p)
・呑気に、ずぼらに、淡泊に、鷹揚に、善良に、世の中を歩いて行くことだった。それが彼のいわゆる通だった。(267p)
・小人数な家族に、嘘吐が二人出来るのは、少し考え物ですからね。(345p)
・畢竟女は慰撫しやすいものである(460p)
・本式に云えば十人が十人ながらほぼ同じ経験を、違った形式で繰り返しているんだ。それをもっと判然云うとね、僕は僕で、僕にもっとも切実な眼でそれを見るし、君はまた君で、君にもっとも適当な眼でそれを見る・・・(488p)
・余裕が空間にまき散らして呉れる浄財(519p)
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