門              夏目 漱石

新潮文庫

伊藤博文がハルピンで射殺されたころの話である。公務員の野中宗助と御米は、日が容易にあたらぬ崖下の家にひっそりと暮らしている。父の遺産相続がらみで、当座のわずかな金と引き替えに一切を叔父の佐伯夫婦に任せ、家屋敷を失った。弟小六は叔父夫婦に学費を支払ってもらっていたが、叔父が他界すると打ち切られ、宗助のもとに転がり込んできた。それでも宗助は優柔不断でそれでも目立った動きをしない。
父の形見としてもらった泡一の屏風を古道具屋に売ったが、大宅の坂井はそれを高い値で買わされた。しかしそれが縁で宗助は坂井とつきあうようになった。坂井の家は女の子がいて、対照的にいつもにぎやかである。
やがて宗助と御米の暗い過去が紹介される。実は御米は宗助の親友安井と親しかったのだが、安井を裏切って二人は結ばれた。そのおかげで安井は出奔してしまった。彼らの生活は仲むつまじく幸せそうに見えるがどこか寂しい。実は子宝に恵まれず、御米は三度流産しているのである。
坂井の申し出で、小六を書生として預かってもらうことになったが、同時に大陸から帰ってきた坂井の弟を紹介してもらうことになった。ところが宗助は、その弟が同行してくる男があの安井と聞いて驚く。急に昔が思い出され、良心の呵責に苦しむ。
宗助は、突然役所を休み鎌倉の禅寺に入る。僧から「父母未生以前本来の面目は何だか考えて見よ。」との公案を出され解答に苦しんだ。とても悟った、等と言えたものではなかったが10日経って禅寺を出た。
安井は再び大陸に渡ったらしい。何事も起こらず、何事も解決せずまたいつも通りの日常が始まる。

宗助夫婦の優柔不断でごく小市民的な生活ぶりが、暗く丁寧に描かれている。最後の禅寺に行く部分は参考になった。これだけで一読の価値はあったようにも思う。友達の女を取り上げたことで悩む、というパターンは「こころ」と同じだが、このくらいでこんなに悩むか、どうして唐突に禅寺かなど現代的感覚から言えば疑問のように思う。しかし人間の行動パターンというのは、案外後から考えると、理論では割り切れない物なのかも知れないとも考えた。

・けれども臍帯纏絡と云って、俗に云う胞を頸へ捲き付けていた。(133p)
・宗助と御米は仲のよい夫婦に違いなかった。・・・・・彼らは、日常の必需品を供給する以上の意味において、社会の存在をほとんど認めていなかった。彼らにとって絶対に必要な物は御互だけで、その御互だけが、彼らにはまた十分であった。・・・・・外に向かって成長する余地を見いだし得なかった二人は、うちに向かって深く伸び始めたのである。(139p)
・気楽では不可ません。道楽に出来るものなら、二十年も三十年も雲水をして苦しむものはありません。(188p)
・ 父母未生以前本来の面目は何だか、考えて見たら善かろう。(189p)
・ 「もっと、ぎろりとした所を持ってこなければ駄目だ。」と忽ち言われた。「そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える。」(200p)
・ 自分は門を開けてもらいに来た。けれども門番は扉の向側にいて、たたいてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、「たたいても駄目だ。独りで開けてくれ」という声が聞こえただけであった。(208p)
・ このような夫婦の会話の平行線で終わっているのは、「世の中に片附くなんてものは殆どありゃしない・・・。」という「道草」の末尾によく似ている。・・・・・宗助の日常は、今日のサラリーマンのそれと同じなのだ。前半の微妙な描写は、たとえあのような過去がなくとも、結局宗助のようになるのではないかといいうるような性質を持っている。・・・・・かって激しい学生運動をやっていた者が中年のサラリーマンとなって感じる感慨と類似するのであって、そのように読みうる描写の確かさにむしろ感心せざるをえない。(230p・・・解説)
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