文芸春秋
幕府はペリーの強圧後、幕府は米、英、露、仏と和親条約を結んだが、米国はさらにタウンゼント・ハリスを派遣し、通商条約締結を要求。ついに屈し、江戸出府を認めた後、下田条約を結び、あとは勅許を待つのみとなった。しかし孝明天皇を中心とする京都公家衆は攘夷論が強く、許される雰囲気ではなかった。そして尊皇攘夷の思想は遼原の火の如く広がった。安政5年井伊直弼が大老に就任、勅許を必ずえんと怪しい者を片端から捕らえた。
薩摩、長州の浪士たちは、京に登る島津久明を説得し、天皇をかつごうと動き始めた。土佐では武市半平太が佐幕の重臣、吉田東洋を暗殺し、土佐勤王党を結成、藩ぐるみ勤王化して天下へ押しだそうと動き始めた。
竜馬は最初、当然の事ながら攘夷であった。しかし蘭学者や絵師の小竜から西洋の話を聞くうちに土佐だけの考えに固まらず、日本全体として開国し、商業、産業を起こさなければ成らぬと考え始める。ついに武市のやり方にも竜馬は限界を感じ、大きな飛躍を求めて脱藩する事を決意する。
脱藩をした竜馬を追う中に岩崎弥太郎がいた。のちに三菱を起こした人物である。彼はこのような時代の中で如何に自分を生かすかを考え続けた。
・武士の家というのは先祖の功名によって子々孫々家禄を頂戴できる。その報恩の行事が祭祀である。自然、祭祀を引き継ぐべきこがないと言うのは、父祖への不幸になる。・・・子なきは去る。という、いわば夫人蔑視の不文律は。こういう事情からできたわけである。・・・妬婦は去る。という不文律もここから出ている。(235P)
・讃岐男に阿波女(304P)
・毛利三百年の反徳川感情は、尊皇攘夷という姿に変わって、若い藩士の間で再燃した。その火付け役は吉田松陰であった。(355P)
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