文芸春秋
竜馬は神戸海軍塾が開いた。しかし練習する艦がない。攘夷の嵐が吹き荒れると共に、幕府方の巻き返しも強い。長州は、単独攘夷を決議し、馬関海峡を通る外国船を片端から攻撃、喝采を浴びたが、ワイオミング号等に返り討ちにあう。
京都では新撰組が尊王の名の下に勤王派を取り締まり始めた。しかし、そのうみの親、清河八郎は新撰組の手で葬られる。そして政変、姉小路公知暗殺事件に続き、薩摩・会津連合軍に長州は京をおいだされ、三条実美等の「七卿落ち」となる。
土佐では山内容堂が家中の勤王党弾圧を始めた。武市半平太が投獄され、人きり以蔵の自白を盾に切腹させられた。大和平野で挙兵した吉村寅太郎が闘死した。竜馬は再び脱藩する。勝と竜馬は長崎に赴き、外国に長州攻撃を中止するよう説得。しかし幕府内部のは外国対策として長州征伐が必要との声がでてくる。
・更に言えば、当時のアジア諸国とは違った、この長州藩の攘夷活動のすさまじさが欧米人をして日本との戦争に荷厄介さを感じさせた、ということはいえる。・・・・海戦、海陸戦では勝てても、もし内陸戦になった場合、サムライのゲリラ活動に手を焼くであろう。(57p)
・筆者は思う。明治維新はフランス革命にもイタリア革命にもロシア革命にも類似していない。際立って違うところは、徳川300年の最大の文化財ともいうべき「武士」というものが担当した革命だということである。(224p)
・土佐藩の上司が、気に入らぬ農民を無礼討にしようとして身柄の差し出しを庄屋に命じた場合など、決して差し出さない。・・・・(294p)
・風力のこと(315p)
・のちに時勢が変転して長州藩が官軍になったとき、長州人は必要以上の報復と憎悪をもって幕府と徳川家の処分を望もうとした。(386p)
・外国をなだめるためにも長州を幕府の手で武力攻撃しなければならぬ。(405p)
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