坂の上の雲(3ー4)
坂の上の雲(3ー4) 司馬 遼太郎
3
俳句と和歌の世界に革命を起こした子規が寂しく逝く。
満州、朝鮮に進出しようと、露骨な帝国主義をふりかざすロシア。
何とか自国を防衛しなければならない日本は、インド等へのロシア進出をおそれる英国と同盟を結び、対抗する。
ロシアと戦争できる状態ではなかったが、膨大な国防費、経済界の協力、外債等で何とか費用を捻出しようとする。
日本は、短期間にできるだけ華やかな成果を上げ、後は外交で言う心理的契機を捕らえて平和に持ち込もうとというはら。
明治37年2月、ついに両国は開戦。
海軍は旅順に、陸軍は仁川を経て旅順、および奉天にむかう。
旅順では早くも魚雷作戦に引っかかり、戦艦と共にマカロフが倒れ、日本もロシアの同じ作戦で戦艦2隻をうしなう。
・できることなら彼らを絶えず軸にしながら日露戦争そのものを描いてゆきたいが、しかし対象は漠然として大きく、そういうものを十分に捕らえることができるほど、小説というものは便利なものではない。(37p)
・軍事費の占める割合は、戦時下の明治28年が32パーセントであるのに比し、翌年は48パーセントへ飛躍した。(40p)
・日本は朝鮮半島をクッションとして考えるだけでなく、李王朝の朝鮮国を、できれば市場にしたいと思った(63p)
・次いでながら、好古の観察には、昭和期の日本人が好んでいった精神力や忠誠心などといった抽象的なことは一切かたっていない。すべて客観的事実を捉え、軍隊の物理性のみを論じている。(126p)
・19世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力を持ち、帝国主義に仲間入りするか、その二通りの道しかなかった。(163p)
・日露戦争というのは・・・・・日本側の立場は、追いつめられたものが、生きる力のぎりぎりのものを振り絞ろうとした防衛戦であったことは紛れもない。(172p)
・マカロフ・・・・魚雷(325p)
4
日本は旅順港の閉塞には失敗したが、ウラジオの艦隊をたたき、さらに一度はウラジオに向かった北方艦隊をたたくことにも成功した。
しかし、その後は北方艦隊は旅順港奥深く引っ込み、バルチック艦隊がでてくるまでまとうという作戦だ。
海軍は陸軍に旅順を一日も早く落としてほしい。
陸軍は苦しかった遼陽、沙河の野戦はどうにか征することができた。
しかし旅順は乃木大将と伊地知参謀が無能でひたすらに正面から攻撃し、死体の山を築くばかりでいっこうにらちがあかない。
ニコライ2世の決定を得ながら遅れていたバルチック艦隊がようやく出航した。
しかしロジェストウエンスキー以下指揮のあがらぬ艦隊は日本の陰におびえ、イギリスの漁船を撃ってみたり、石炭の補給を受けるためにスペインの小村に5日も釘付けにされたり、早くも行く手の不幸を暗示する出来事に遭遇する。
・やがて行われるであろう遼陽開戦については、世界が注目していた。・・・・もし負ければ、日本の国際評価が落ち、どの国も援助の手をさしのべてくれないにちがいない。(105p)
・一軍だけ特別の強兵を持って組織するというのは、日本戦史では徳川家康における彼の中期以後の軍団がそうであった。・・・・が、家康と児玉の違いは、家康がこのドリル部隊を正面攻撃用に使ったのに対し、児玉はこれを遊撃用に、つまり隠しゴマ風に使ったところにあった。(130p)
・シフに言わせればロシア帝政の歴史はそのままユダヤ人虐殺史であり、今もそれは続いている、という。(162p)
・大本営は、この戦争を始めるに当たって、これらロシア内外の不平分子を煽動して帝政を倒さしめるべく・・・(168p)
・山形の保守的性格が、日本陸軍に技術重視の伝統を希薄にしたということは言えるであろう。技術の二流性は、兵卒の血で補うとした。(176p)
・織田信長も、若い頃の桶狭間の奇襲の場合は例外とし、その後は全て敵よりも大いなる兵力を結集して敵を圧倒殲滅する方法である。(246)
・旅順の日本軍は「老朽変則の人物」と密かにののしられている参謀長を作戦頭脳として悪戦苦闘の限りを尽くした。一人の人間の頭脳と性格が、これほどの長期に渡って災害をもたらし続けるという例は、史上に類がない。(307p)
・軍隊のおもしろさは、自分の将が神秘的なほどの名将であることを常に望んでいるし、もしそうだとわかれば殆ど宗教的な信仰を持ちたがるものであり、軍隊がそういう信仰で固まったとき、統帥は初めて成功する。(332p)
・ヒステリーは女性に多いと言われるが、男子の中には軍人にそれが多く、特にヒステリー痴態といわれる症状が、この職業人に多い。(376p)