文春文庫
台湾出兵について日本は戦争の意志はなく、賠償金を取りたいと考えている。若い公家出身の柳原を派遣し、天津で清で勢力のある李鴻章と交渉させるが馬鹿にされるだけだった。そこで大久保が自ら行くことになった。
本来の交渉窓口である総理畫衛門にゆき、恭親王と直接会談。「そもそも台湾は、中国の領土なのか。日本はそのように認識していないから兵をだした。」と一見無謀と思われる理論を展開する。
交渉はゆきずまり、決裂、戦争の可能性まででたが、この地域の平和を願う英国があわてた。大使ウエードの仲介で、ようやくまとまり、賠償金50万両を得る。
台湾に駐在し、熱病に悩まされていた壮士たちは帰国の途につくが不満が鬱積した。その中の一人宮崎八郎は肥後荒尾村にもどるが、中江兆民の訳したルソーの民約論に共鳴。地元に植木学校を作り壮士を集める。明治8年、東京にでた彼の運動は森有礼の明六社の動きとも相まって次第に拡大して行く。
一方独裁専制の非難を浴びた大久保は木戸、板垣を担ぎ出し政局を乗り切ろうとするが、伊藤はこの機会を捕らえて大久保に三権分立案をみとめさせてしまう。これはやがて憲法発布へとつながって行く。
・山県有朋がこのときの「陸軍無視」の経験を忘れなかったというのは、やがて明治憲法の中に天皇の統帥権という非立憲的な要素を噛みこませ、その統帥権の保持機関としての参謀本部の性格を明確にしたことでもわかる。
作戦に必要とあれば時に内閣も議会も無視して良いというこの魔術的大権は、・・・・軍人が国家を手玉に取る仕掛けのタネとなった。
(34p)
・(ウエード)清國政府がかわいそうである。・・・このたびのことは妥協して、今後は日本は朝鮮に手を出されよ。(135p)
・八郎もその仲間たちも、戦争が文明であると信じて疑わないのである。極端に言えば、戦争以外に文明があるのを知らなかったと言えるであろう。(189p)
・民選議員設立建白書「人民にして政府に租税を払う義務を持つものは政府のやることを知る権利があり、またその可否を論ずる権利がある。これは世界の通論である。」(237p)
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