翔ぶが如く(8)          司馬 遼太郎

文春文庫

 東京の大久保は、最初たったのは私学校で、西郷はたたなかったと考えたが甘かった。このころ官軍は3万以上の兵があったとは言え、鎮台の農民兵主体、しかも各地の守りも必要であったから、薩摩軍にかなわないのではないかと見られていた。
 明治10年2月、ついに西郷を中心とする薩摩軍は熊本城をめざし、政府もまた討伐を決定する。熊本城に入った谷干城は数少ない不慣れな兵たち、それに攻めにくい城を考えて籠城を決心し、準備を始める。薩摩人主体の兵に気を使い、神風蓮の霊と加藤清正に祈って壮行会を催すが、決戦直前に不審火がでて食料とともに天守閣と城下町を焼いてしまう。
 しかし、熊本城は容易に落ちなかった。城外、初戦植木周辺の戦いでは、薩軍は乃木軍を大いに破った。あえてこれを追撃しなかったが、これが裏目にでた。高瀬川の第一線、二戦、三戦と続く内に政府軍は援軍が続々と到着した。その上、大砲と銃でで勝っていた政府軍は次第に優勢になってきた。熊本城はほっておいて小倉に進軍しようという案もあったが否定された。
 ところで作者はしばしば点景をいれ、その時代と風土を読者に理解させようとしている。阿蘇の乱と日本の農村の変遷、明治初期の戸長制度の解説は非常に興味深かった。


・もっとも、それ(暗殺を企画したものを処罰するという要求)が西郷の行動の、真性かつ唯一の動機、とは誰も信じられないのだが。日本における表向きの開戦理由は、決して真のものではない。(22p)
・外界を自分たちに都合良く解釈する点で幼児のように無邪気で幻想的で、とうてい一人前の大人の集まりのようではなかった。これよりのちの歴史で、これとそっくりの思考法をとった集団は・・・・昭和期に入っての陸軍参謀本部とそれを取り巻く新聞・政治家たちがそれだろう。(70p)
・「盗みは官員、咎は民」(135p)
・薩軍の作戦心理は自閉的におちいりつつあった。そのことは途に食物(熊本城)が落ちているのを見つけた犬に似ていた。(223p)
・この高瀬の第三戦ほど、薩軍に勇将があって名将が存在しないことを証明したものはない。・・・三者は甚だしく到着時間を異にし、到着するごとにばらばらに攻撃した。・・・(政府軍は)薩軍が攻撃するごとに、それに対応する必要な兵力を出していればよかった。(256p)
・阿蘇一揆と戸長制(279p)
・薩摩郷士は上につき、土佐郷士は下につく。(282p)
・まことに戸長制度というものほど、太政官国家の体質をばかばかしいほどに象徴しているものはない。(284p)

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