翔ぶが如く(9)          司馬 遼太郎

文春文庫

 熊本城救済のために進軍する政府軍を、薩軍は田原坂でむかえた。激闘十数日、薩軍は勇猛果敢で政府軍は惨敗をつづけた。しかし、薩軍は(1)補給軍がない。(2)弾薬が不足(3)戦略が不足などが目立つ一方、政府軍は警視軍を投入するなど陸続と援軍をくりだした。日奈久に上陸した衡背軍が、戦列に参加するに及び、薩軍は田原坂を追われ、籠城50日余にして熊本城は開放された。
 木山、浜町と撤退した薩軍は、桐野、西郷の二手に分かれ人吉に入る。人吉は山々にかこまれ政府軍が入るのも容易ではない。薩軍はまだこの段階で1万以上の兵を擁し、別府等が新たに募集した兵も加わっていた。
 桐野は、九州南部を守備範囲と考え、独立王国を築く構えで全軍を8方面に配置した。壮大なものであったが、全く守りの姿勢に入った訳で、当初の理想は消え、西郷と桐野の仲も冷えてしまった。3ヶ月後、人吉自体が手薄になったところをつかれ、薩軍は日向に向かって逃げ出した。このころにいたって投降者が出始めた。

・(百姓兵三輪民弥)驚嘆すべき事は・・・文章に冗漫さがなく、簡潔直截で一種の名文であること、さらに文法や措辞にすこしの誤りもないことである。・・・鎮台兵が無学愚鈍だったという先入主は、明治初年の社会を見る上で、捨ててかからねばならぬようである。(41p)
・(木戸)この暗殺事件のために、官賊あわせて死傷者は二万、人民が失った家屋財産は幾千万円という凄惨な結果になった。大久保は戦いが終われば速やかに引退すべきだし・・・(84p)
・桐野が・・・言った言葉は、薩摩人の勇気のみを計算してのことでほかは何も考えなかったと言っていいであろう。(164p)
・降伏部隊は矛を逆にして敵軍の一翼になるというものであり、駒を奪ればその駒を使うという日本将棋のルールに酷似している・・・日露戦争の時も捕虜になった日本兵は日本軍の配置を簡単にロシア軍に教えた。・・・・この体験が、昭和以後、日本陸軍が、捕虜になることを極度に卑しめる教育をする元になったと言っていい。(272p)

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