あえて真実を追求せず     阿笠 湖南



初夏、目に青葉がまぶしい季節である。
荻窪警察署署員食堂。外はけっこう暑いが、ここは空調が利いているから天国だ。
お偉方の視察の準備に追われて、生き甲斐の昼飯の時間が短くなってしまった。むかいに坐っている丸田部長刑事が、早くも食べ終えて、話しかけてきた。
「多摩の事件はどうなっちゃうんですか。若い女の白骨死体が、下水道のマンホールの中から出てきたやつですよ。」
依田警部補は、困ったような顔をした。最後の一切れのハンバーグを口に入れながら、ぼそっと言った。
「マンホール事件?どこか問題なのかね。」
「どうして逮捕できないんですか。マンホールは、三年に一度点検するんでしょう。死体は、ちょうど点検直後にほうりこまれた。素人が犯人という訳はないでしょう。容疑者の男は下水道局の職員で、しかもあの区を担当していた。そして妻子があるのに、被害者の女性と関係していた。それだけ揃えば明々白々じゃないですか。」
「君の言うのは状況証拠だろ。死体は発見されたとき、もう半年以上経過していたからね。半年も前の話を覚えている奴はいないから、目撃者がでないんだよ。他の人間がやった可能性だって、否定しさる訳には行かないだろう。」
お茶も飲み終えた丸田は、ちょっと尋問調で言う。
「まるで警部補は、現行犯じゃなきゃ、逮捕出来無いって言ってる見たいですよ。」
「そうじゃないよ。そういう厳しい条件の中で、自白や数少ない証拠を集めて、犯罪を立証することが、我々の仕事なんだよ。仕方がないさ。」
やれやれ、若い者は元気すぎていけない、もっともこの正義感ぶりが、彼の良いところなのかな、などと依田は考える。
「あの容疑者は失踪しちまったよ。事件がもとで、使い込みまでばれちゃって、懲戒解雇になったんだ。世間の目も冷たくなったんだろうな。」
「あれ、ずらかっちゃったんですか。知らなかったなあ。失踪届けはでたんですか。」
「かみさんからね。もっともそれと前後して離婚届もでたらしいけれどね。」
「社会的な制裁は受けたってわけだ。まだ見つかっていないんでしょ。」
「ああ。それについちゃ、こわい話があるんだ。消されたんじゃないかって。」
「ええ?」
「殺された娘のおじさんというのが、ヤクザの親分なんだ。榊原っていってね。関東菅笠会の舎弟なんだよ。」
「そらあ、大変だ」
とはいえ、丸田は、なんとなく溜飲を下げた様子で会話が途切れた。依田は、懐からハンカチを取り出して、口の周りをぬぐい、壁の大時計をちらりとみやった。それから、周囲に聞こえるようにぴしりと言った。
「さあ、一時だ、仕事、仕事!」

片岡翔子は、三二歳のOLである。一六○センチを越す長身、色白の上、黒い長い髪と大きな目が魅力的な美人である。得意の英語を生かして、都心の商社に総合職として勤めているから、給料は良い方だ。
しかしそろそろ将来の身の振り方を決めないといけないのかも知れない。職場で、彼女に電話があると、男性社員は「彼氏ですか。」「今日はデートですか。」などと、人の神経を逆なでするようなことを言う。里の母親は、「女は家庭に入るのが一番・・・。」などと言いながら、見知らぬ男の写真を持ち出してくる・・・・。
翔子だって、今までに恋や見合い話を何度か経験した。しかし今の生活を壊してまで嫁に行きたくなるような、そんな素敵な男性に出会わなかった。結婚しても良いかなくらいのはいたが、どの男も自分を今以上に幸せにしてくれるとは思えなかった。
今は、なんて言ったって自由だ。結婚すれば相手に合わさなければならない。その上、相手は、格別多い収入を得ているわけではない。夢みたいな事は起こりそうにもない。
そのうちに子供でも出来て、オシメを心配し、下手をやったら相手の歳取った両親まで押しつけられて、神経すりへらさなけりゃならない・・・・。ああ、いやだ。そんな思いが、彼女の決心をにぶらせて来た。
最近、見合い話が少なくなってきた。それも仕方がない、いざとなったら一生独身で通すか、などと考えるようになってきた。しかしもちろん、男に関心がない訳じゃない。
夕方、荻窪駅をおり、駅ビル地下を進む。エバンタイユ、コロンバン、モロゾフ、ヒロタ・・・。子供の頃からお菓子に目がない翔子は、気になって仕方がない。ローゼンハイムの前で足が止まる。ガラスケースを眺める。買うか、買うまいか。
「何にしましょう。」
突然、声をかけられた。その白い服の女店員は、彼女よりも十歳は若そうだ。ピンク色の縁取りのついた白い帽子が可愛い。何の屈託もない声に、翔子の迷っていた心はすっかり決まってしまう。
モンブラン、イチゴショート、シフォン、スワン、チーズケーキ、ああ、みんなおいしそう。また太っちゃうかな。あれこれ思案の末
「ザッハトルテ!。」
「かしこまりました。お一つですか。」
途端に何だか、馬鹿にされたように感じた。お相手がいないんじゃしょうがないわよねえ、そんな風に言っているみたいに見えた。思わず言ってしまった。
「いえ、二つ・・・・。」
包んでもらってから、あの甘いチョコレート菓子を二つ!と自分でもびっくりしたけれどもう遅い。が、ふと良い考えが浮かんだ。ちょっとデカプリオみたいな顔をしている、アパートの隣の部屋の男の子にあげよう。
デカプリオとは、半月ばかり前に朝出勤するときに目があった。「今度お隣に引っ越してきた森山です。よろしく。」と述べ、ぺこんとお辞儀をした。三日ほど前、帰りのバスで一緒になった。
「いままで一人で下宿してたんですけど、部屋代が高いでしょう、それで親父のところに潜り込むことにしたんです。当分、親父は出張でいないから、お茶でも飲みにいらっしゃいませんか。」なんて調子の良いことを言っていた。何商事って言ったかしら、とにかく都心の会社に勤めているんだわ。
何だか、楽しくなってきた。バスをおり、ザッハトルテが二つ・・・・。箱をぶら下げて、彼女は、外灯に照らされたアパートの階段を、うきうきと登る。
ハンドバックを自室のあがりがまちに放り出して、さっそく隣の二○二号室をのぞく。明かりがついている。もう、帰っているようだ。
「もしもし・・・。」声をかけながら、呼び鈴を押した。返事がない。
おそるおそるドアのノブを押してみると、すっと開いた。「あら、不用心。」と思いながらもう一度「森山さーん・・・・」と呼ぶ。相変わらず返事がない。
「失礼します!」と靴を脱ぎ、キッチンに上がる。ビニルフロアの床がちょっと冷たい。何とはなしに、不安になり、胸がどきどきする。左の部屋に明かりがついていたので、ガラス戸をおそるおそる開け、奥をのぞいた。
青いパジャマを着たデカプリオが、板の床の上に大の字になって倒れていた。
翔子は機械的にしゃがみ込んだ。顔に少し赤みがさし、眼は半ば開いているがうつろだ。頬におそるおそる触ってみる・・・・ひやりとした感触。脇の下を冷たい物が流れたように感じた。きゃっと叫んで、尻餅をついたが、それで不思議に落ち着いた。
「どうしよう。誰か、いないかしら。」
外に出る。ちょうど二○一号室の三森夫人が、赤ちゃんを胸に抱き、両手に買い物籠を抱えて、階段を上がってきたところだった。
「森山さんが大変です!どうしましょう。」

依田警部補は顔色が悪く、ひょろりと背が高くやせている。まるで麻雀のリャンゾーみたいだ。彼は、十年ほど前に一人娘を交通事故でなくした。
その時、知人に誘われて、キリスト教の道に入った。一ヶ月の一度くらいだが、妻と一緒に地元の教会に行く。ステンドグラス越に入ってくる光を受けながら、祭壇に向かって十字を切る。すると不思議に殺伐とした日常から、何か救われる感じがする。「人間は何か信じるものを持っている方がいい。」が彼の持論になっている。
キリスト教の影響からか、人一倍、悪を憎む気持ちが強く、物事をいい加減に終わらせることが嫌いだ。しかし、根はやさしい。
丸田部長刑事は、大きくはないががっしりした体つきをしている。その体型からイーピン刑事と仲間内で呼ばれている。
彼は、半年前にある人の紹介で、S県警のとびきり美人の巡査を嫁に迎えた。今はぞっこん、と言うよりも完全に彼女のお尻の下にしかれている。なかなかの正義感で、物事にがむしゃらに突き進んで行く。
ゲジゲジ眉の北田警視は、二人の上司。「イーピンとリャンゾーなら、悪くない組み合わせじゃないか。」と彼らをからかう。もっとも所内の蔭の声は「署長の得意は、そうやっておだてながら、人の功績をさも自分の功績のように語ってみせるところさ。」いかにもエリートという感じで、依田は苦手だが、上長とあれば従わざるをえない。
午後八時、依田が、丸田と鑑識の川村を連れて現場に到着。今日も蒸し暑い。
目的のアパートは、メゾンドブランという名前の瀟洒な建物。ミカン色の屋根瓦を配し、壁が真っ白な南仏風の建物である。四メートル道路に階段が面しており、南北に長い上下四戸ずつのアパートだ。東向きの前庭には、大きな樫の木が植えられ、暑さしのぎになっている。南側は、螺旋型の非常階段があり、細い通りとフェンスを隔てて、立派な護岸工事を施した、善福寺川に面している。
赤色燈を光らせて、白い救急車が、もう止まっていた。依田は、あいつらが現場を変にいじらなければ良いが、と心配する。
三十前後の女性が二人、警察の到着を待っていた。案内されて、早速二階に上がる。
「ご苦労様です。荻窪署の依田です。」と警察手帳を示す。ドアの前に立っていた救急車の男に会釈し、二○二号室に入る。手前がキッチンになっており、右手奥にはユニット式のバストイレがあるようだ。奥に洋室が二つ、二DKと言うのだろう。狭いが機能的にまとまっているようだ。
左の部屋に洋式テーブルがあった。その足から五○センチくらい離れたところに、パジャマ姿の男が大の字になっていた。触れて見るまでもなく死んでいる。死後硬直を起こし、体が棒みたいにかたい。
死後二十時間くらいたっているのだろうか。
「あなた方は・・・・?」
振り返った依田は、迎えに出た女性たちに聞いた。OL風は二○三号室に住む片岡翔子、赤ん坊を抱えている方は、二○一号室の三森ゆかりと名乗る。
「通報されたのは三森さんですね。発見されたのはどなたですか。」
「私です。」と片岡嬢。
「発見時の状況を説明して下さい。」
「七時半ころ、森山さんをお訪ねしたところ、明かりがついているのに、返事が無かったんです。それでドアを押しましたら、そのまま開いたんです。声をもう一度かけたんですけど、やっぱり返事が無いのであがって見たところ、この有様だったんです。びっくりしました。どうして良いか分からなくて、表にでましたところ、三森さんがちょうど買い物から帰って来られたんです。」
「現場はいじってないでしょうね。」
「ええ、そのままです。」
「この境のガラス戸は開いていたんですか。」
「あ、それは私が発見したときに開けました。」
庭を見ながら、さらに依田がつっこむ。
「ガラス窓は、閉まっていましたか。」
「はい。」
「それから、どうしましたか。」
三森夫人が少し小さな声で答えた。
「とにかくと思いまして、二人で警察と消防、それから大家さんに電話をしました。」
「片岡さんはまたどうして森山さんをお訪ねになったんですか。」
「あの・・・。ケーキを二つ買ってきたので、一緒に食べようと思いまして・・・・。」
「はあ、・・・・ケーキ!」
何となく依田は、質問の気勢をそがれた感じがした。
「大家さんはまだ見えないんですか。」
「もうすぐ来ると思いますが・・・・。」
テーブルの小皿の上に、蒲鉾が五切ればかり載っている。グラスの中に、ウイスキーらしい黄色い液体。側に文庫本が一冊転がっている。裏返しにしてあった表紙をひっくり返すと、連城三紀彦の「どこまでも殺されて」とあった。
壁ぎわに食器棚。一四インチテレビが真ん中に据えられている。
台所のまな板の上に、封をきっていないインスタントラーメン。シンクタンクの中には洗いかけの箸や皿が突っ込んである。ガス台の上に今日来た新聞がぽんとおいてある。反対側の隅に小さな冷蔵庫。
隣の部屋は寝室に使われているらしく、大きなベッドが部屋の半分くらいをしめ、反対側にソファーとステレオ。
階段を登って来た男が二人、好奇心一杯と言う顔で部屋の中をのぞいていた。
「あなた方はこのアパートの方ですか。」
「ええ・・・・。何かあったんですか?。」
「男の人が、倒れているんですよ。」
「殺されているんですか。」
「さあ、どうですか。」と言葉を濁し、逆に質問する。
「また後からうかがいますが、部屋番号と名前をお聞かせ下さい。」
一人は六十に近い老人で「一○一号に住んでいる島津です。」と名乗った。頭が半分薄く、白髪が目立つ。人は良さそうだが、口元がしまりのない感じだ。
もう一人はアジア系外人らしい。一○二号に住んでいるアリ・サハン、と名乗った。
二二、三歳だろう。流ちょうな日本語でジャカルタから来た、立川にオフィスのある松永製薬に勤めている、時々語学学校でインドネシア語を教えている等と語った。
やっと大家らしい男が、階段を上がって来た。白髪、長身、何となく風格があり、学校の先生を思わせる。六十歳くらいだろうか、青い半袖のポロシャツ、薄緑色のズボン、ラフなスタイルだ。
「大家の村橋です。みなさん、ご苦労様です。二○二号室の森山さんですね。ちょっと失礼します。」
挨拶もそこそこに、丸田の脇をすりぬけて、部屋に入ってくる。全くクソ落ち着き払った態度・・・。「ああ、現場をうごかさないで下さい。」と声をかけるが「分かってますよ。でも見なければ仕方がないでしょう。」と意に介さない様子。
そして、死んだ男をのぞき込んで、スットンキョウな声。
「こりゃあ、森山さんじゃない!」

「森山さんは四十過ぎの人ですよ。」と大家の村橋。
「息子さんです。この前、そうおっしゃってましたわ。」と片岡嬢。
「契約書じゃ森山一夫さん、お一人なんですがねえ。こんな大きな息子さんがいるなんて話はきいていませんよ。」と村橋はつっけんどん。
壁に吊してあった薄手の背広の内ポケットから、プラスチックケースに入った社員証が出てきた。三島商事営業部永島繁夫とある。それなら森山一夫の息子でもない!。話している内に、だんだん事情が分かってきた。
一ヶ月ほど前、「息子さん」はこちらに現れた。そして片岡嬢や三森夫人には
「息子です。親父はしばらく出張でこちらに来ません。僕一人になりますからよろしく・・・。」
と言っていたそうだ。すると何らかの理由で森山一夫は、永島繁夫に自室を又貸ししたのだろう。しかし、なぜ、彼は森山と名乗っていたのだろうか。又貸しがばれるとまずいので、森山一夫がそう要請したのだろうか。
遺書のような物は見つからない。
食器棚の引き出しの中はごたごただった。請求書、広告、フィルム、印鑑、筆記用具、ヌード写真、包装紙につつんだネクタイなどである。ところが丸田がこれだけか、と引き出しを取り出して逆さにすると、底板が落ち、その下から永島繁雄の預金通帳と森山一夫あて三万円の振込控えがでてきた。
もう一方の引き出しには、小型カメラ、ドライヤー、アルミ製の櫛、整髪料、給料明細書などが、これも雑然とつっこんであった。
川村が次々にフラッシュをたき、写真を撮って行く。死体の位置を示すマークをおき、印をつける。
「突然死か自殺か、どっちかねえ。殺人と言うことはないだろう。」
「ええ。そうですね。」
しかし、依田は慎重を期して、死体を司法解剖することにした。合わせて、蒲鉾とウイスキーグラスの中味を分析する事にした。作業に熱中していると、片岡嬢が突然「あら、おかしいわ。」とテーブルの上を指さして小さく叫んだ。
「どうしましたか。」
「さっきは、ここにウイスキー瓶があったわ。」
「さっきって・・・。」
「最初に死体を見つけた時です。」
びっくりした様子で依田。
「本当ですか。」
「間違いないわ。半分くらい飲んだジョニ赤の瓶だったわ。よく覚えています。」
「奥さんは、気がつきませんでしたか。」
「いえ・・・・あったかしら。そんなの。」
「その辺に無意識のうちに移動したなんてことはありませんか。」
しばらくその辺を捜したが、見つからなかった。依田はハンカチを取り出して、額の汗を拭いながら、片岡嬢の方をむく。
「私たちが部屋に入るまでを、もう一度手順を追って、説明してくれませんか。」
「ええと・・・。永島さんとおっしゃるんですか、あの方が倒れているのを発見して、びっくりして表にでました。すると三森さんの奥さんが、買い物から帰っていらっしゃったので、事情を話しました。」
「何時頃ですか。」
「七時半頃だったと思います。事情を聞いて、三森さんが「それじゃ、警察に連絡しなきゃ・・・。」っておっしゃったんです。それで三森さんのお宅から電話をしたのです。その後、私が「大家さんも連絡しないといけないんじゃないかしら。」と申し上げました。すると、奥さんが「そうだわ、消防署も連絡しないと・・・。」と言われたので、また電話をしました。本当に焦りましたわ。」
「時間にして、どのくらいかかりましたか。」
「番号を調べたり、事情を説明したりしましたから、十分くらいはかかったと思います。それから三森さんが冷たい麦茶をいれて下さったので、廊下を気にしながらいただきました。十分位して救急車が来ました。」
三森夫人に、片岡嬢の発言内容を確認すると「その通りです。」と答えた。
依田たちが、到着したのは八時過ぎだった。だからこの三十分くらいの間にウイスキー瓶が消失したことになる。
「電話をしている時やお茶を飲んでいる時に、誰かこの部屋に入ったり、出たりした様子はありませんでしたか。アパート以外の方でも結構です。」
と聞いたが、二人とも「気がつきませんでした。」と答えた。
依田は、ウイスキー瓶なんて、最初からなかったんじゃないか、彼女の錯覚じゃないかとも考えた。しかしそうだとすると、このグラスの中のウイスキーらしき液体は、一体どこから来たのだろう。
二○二号室は、どの部屋もくまなく捜したが、酒類はほこりをかぶったタカラ焼酎が一本でてきただけだった。
最後に、村橋に明日からの調査に供えて、アパートの部屋番号と居住者を聞いた。一階は道路側から一○一号島津氏、一○二号アリ・サハン氏、一○三号空室、一○五号上杉氏となっている。一○四がないのは四が死を意味し、縁起が悪いからだそうだ。
二階も同様で二○一号三森夫妻、二○二号森山(永島)氏、二○三号片岡嬢、二○五号空室となっている。

翌朝、鑑識の結果が出た。永島繁夫の死亡推定時刻は、前夜十時から十二時の間、青酸化合物による中毒死とのことだった。
そのくせグラスに残っていたウイスキーからも、蒲鉾からも青酸化合物は発見されなかった。グラスからは指紋すら検出されなかったそうだ。
依田は、青酸化合物と聞いてやっぱりと思った。あれから彼は、ウイスキー瓶がなくなった訳を考え、一つの結論に達していた。
事件の経過を北田警視に報告する。
「馬鹿者!肝心の物証を盗られただと、何年、警察に勤めているんだ。」
北田は机をどんとたたいて、すべてが依田に全責任があるかのように怒鳴った。
「でも、ウイスキー瓶がなくなった結果、殺人事件と言うことがはっきりしました。」
北田のゲジゲジマユがぴくりと動いた。
「なぜだ。なぜ自殺じゃいけない!」
「体内の青酸化合物はどこからきたと考えられますか。まさか、青酸化合物をそのまま飲んだわけはないでしょう。何者かがわざわざウイスキー瓶を隠してしまったのだから、そちらに入っていたと考えざるをえないでしょう。グラスに入っていた飲みかけのウイスキーも、その時に交換したに違いありません。指紋がないのがその証拠です。普通なら永島の指紋がついてるはずです。」
思わぬ反論に北田はたじたじとなった。
「シャーロックホームズみたいに推理するんだね。ウイスキー瓶は、永島がどこかに捨てたって考えれば、自殺って言うことだってないとは言えないでしょうが・・・。」
依田はちょっと考える風を装ったが、きっぱりという。
「やっぱり無いと思います。大体、自殺しようとする人間は、毒物はコップに入れるのが普通じゃないですか。瓶に混ぜて振り回してからコップに注いで飲むと言うことは、普通では考えられないと思います。」
持て余し気味に北田が言う。
「なら、君と丸田君で調べたら良いだろうが・・・。」
依田は、北田がまた人任せをする、と思うがここは引っ込むわけには行かない。
「分かりました。そのようにやらせていただきます。失礼します!」
切り口上に、北田はむっとした様子で
「ふん!・・・ああ、それから殺人かもしれないという話は、事がはっきりするまで伏せておけよ」
「はい、分かりました。しかし、聞き取り調査をする上で、その話をしないわけには行かないと思いますが・・・・。」
「だから・・・だからそこをうまくやるのが君たちの勤めじゃないか。」
「一応、努力はしてみます。」
席に戻り、依田は、早速丸田と川村を呼んで相談する。
「まったく、彼女たちもぬかったな。一瞬の隙をついてウイスキー瓶を持ち去られるなんて・・・。電話をかけているわずかの間にやられたんだな。」
とぼやくが、丸田はウイスキー瓶消失の利点をさらに強調した。
「おかげで犯人の範囲が絞られたんですよ。変事を知ってウイスキーボトルを持ち去ったとなれば、犯人は、アパートの中にいた人間に限定されるじゃないですか。」
「なるほど。」と依田はうなづく。
「とにかく捜査方針をはっきり決めよう。容疑者は片岡、三森夫妻、アリ・サハン、上杉、島津の六人。大家はどうなんだろう。」
「現場に来る前に、何かしたと言うのなら別ですがね。それから別に訪問者がいれば、加えなければいけません。」
「そうだな。それから本当の森山一夫の行方を追わなければならないな。彼が青酸化合物を混入した可能性が高い。」
「しかし、彼は容疑者ではないと思います。」
「なぜ・・・・、そうか。そう言うことか。」
質問しながら、依田は気がついた。おそらく、ウイスキー瓶に青酸化合物をいれた人間と、ウイスキー瓶を持ち去った人間は同一だろう。とすれば森山一夫が、死体発見時にあの近くに現れたという情報が無い限り、彼は犯人ではあり得ないことになる。
協議した結果、アパートの住人を中心に、一般的な話、永島が死んだ時間およびウイスキー瓶消失前後のアリバイ調査、その時間にアパートに近づいた不審な人物の有無、および二○二号室に侵入した者の発見に全力を尽くす事にした。
情報が次々に集まってきた。
森山一夫の話は、おかしなことになってきた。契約書に書いてあった勤め先、江南商事に電話をしたところ、「その電話は、使われていません。」とNTTオペレーターの無機質な声。叔父に当たる男が保証人になっているので、そちらに電話するが通じない。いろいろ問い合わせた結果、契約時の勤め先、保証人の住所等はすべてでたらめであることが分かった。
森山を斡旋したのは、寿不動産という土地の会社。早速そちらにも出向いたが、無駄足だった。
永島繁夫の三島商事は、連絡が取れたので、午後から事情を聞きに行くことにした。
彼の預金通帳には毎月給料が振り込まれ、カードによる支払いが記載されていた。かなり苦しかったようで、残高はほとんどない。中に目を引いたものがふたつあった。六ヶ月前とつい最近、コズエという者から五十万円の振り込みがあった。

「昨日はショックだったでしょう。」
「ええ、でも刑事さんこそご苦労様です。」
片岡嬢のやさしいもの言いに、依田は思わずにっこりした。彼女は、昨日のショックからは、一応立ち直っているように見えた。自分の実家は藤沢にある、学校をでてから、ずっと三山物産の秘書課に勤めている、外人相手に仕事をすることが多い、こちらに来て二ヶ月になる、などと身の上話を語った後
「永島さんは、ここに来てはじめて知りました。森山さんと名乗られたので、てっきり息子さんだと思っておりました。感じの良い方でした。私、弟がいたんですけれど、五年前に病気で亡くなったんです。なんだかその弟のような気がして・・・・。」
「何か最近、アパートの周辺で怪しいことに気がつかれませんでしたか。」
「いいえ、特には・・・。」
「一昨日の夜、そのころ永島さんが亡くなったと考えられるのですが、何か変わったことに気がつきましたか。」
「一昨日は、会社の同僚と飲みに行っておりました。アパートに戻ったのは、十二時頃だと思います。遅かったせいか、何も気がつきませんでした。」
「実は、警察では、今回の事件は、殺人かもしれないと考えているんですよ。」
「まあ。恐ろしい」
「消えてしまったウイスキー瓶に、毒物が混入されていたらしいんです。そうだとして、犯人に何か心当たりはありませんか。」
「いいえ。全然ありません。」
「アパートの他の人についてはどう思いますか。個人的な意見で結構です。」
「名前を知っている程度です。来て日が浅いから、目で挨拶するくらいです。」
「でも三森夫人は、よくご存知でしょう。」
「ええ、そうですね。あの方は親しくしていただいていますから・・・。」
「ありがとうございました。今日のところはこれで終わります。あの毒物混入の話は、当分内緒にしておいてくれませんか。まだ断定的なことは言えないのですよ。」
「分かりました。」
三森ゆかりは、色白で唇がぽったりと厚く、色っぽい女性である。赤ちゃんを抱いたまま、こちらの聞き取りに応じてくれた。赤ちゃんは、さやかちゃんと言い、六ヶ月になるのだそうだ。彼女は亭主が、駅北口近くの大京寿司で寿司を握っている、結婚して三年になる、前のアパートで嫌なことがあったのでここに越してきた、などと語った。
「永島さんについて、何か知っておられますか。」
「森山さんとばかり思っていました。どこかの商事会社に勤めている、とうかがいましたが、それ以上のことは知りません。」
「このアパートのその他の人について、どう思われますか。」
「片岡さんは、気の良いお嬢さんの様に思います。階下の男の方たちは、こちらに来て日が浅いので、良く知りません。」
「一昨日の夜、永島さんが亡くなられた様なのですが、何か変わったことに気がつきませんでしたか。」
「夜九時頃、どなたかと一緒に帰って来られたようですわ。お連れさんはすぐ帰られた様です。それ以外は分かりません。」
ゆかりが奥の部屋に引っ込むと、変わりに亭主が出てきた。
「今日は休みですか。」
「午後から行くんだよ。何で僕が、事情を聞かれなくちゃならないの。」
口をとがらして、ちょっと喧嘩ごしの言い方である。
「まあ、まあ、これも決まり切った手続きみたいな物ですから。一昨日の夜八時過ぎ、あなたはどこにいましたか。」
「家に戻ったのは十一時すぎだよ。その時間なら、寿司、握ってたよ。」
「昨日の夜、死体が発見された頃もいませんでしたね。」
「ああ、仕事だったからね。事件は、女房から聞いて、知ったんだ。」
「永島さんについて何か知っていますか。」
「そうねえ・・・。そう言えば一週間くらい前に、駅の南側にある「大天狗」で見かけたことがある。背の低い丸い顔の女の子と一緒だった。邪魔しちゃ、悪いと思ったから声をかけなかったけど・・・。」
「アパートの他の人について何か知っていますか。」
「知らねえ。近所づきあいは、ゆかりの仕事で、おれには関係ない。」
案外、さっぱりした気のよい男の様で、お御輿でも担いでいた方が似合いそうにみえた。
依田は、丸田と三人について毒物混入犯としての可能性を考えて見た。
三森が事前に忍び込んで、ウイスキー瓶に青酸化合物を混ぜることは、可能だったろう。しかし、死体発見時に寿司を握っていたという証言は、その後ウラがとれた。そのため、ウイスキー瓶を持ち出せなかったと考えられる。また、性格から言っても毒殺などと言う手段はとらないように思えた。従って容疑者リストからはずれるようだ。
三森夫人は、昼間は家にいるから、毒物を混入しようと思えば出来たかも知れないし、ウイスキー瓶も回収出来ただろう。しかしそうだとしても動機は不明である。
片岡嬢も、可能性がないとは言えないが、動機がどうもわからない。ケーキを買って行く、という関係は、ほほえましく感じられた。
二人の女性が容疑者とした場合、鍵はどうしたのだろうか。

村橋家は、アパートから五百メートルくらいのところにある木造の一軒家。二人で訪問すると、洋式の応接室に通され、村橋は夫人と一緒で出てきた。小さいながらよく手入れされた庭が、ガラス戸越に広がっている。
「村橋さん自身のことを教えてくれますか。」
「私どもは、ここに五年ほど前に引っ越してきました。私は、かえで銀行に勤めていたのですが、定年で退職しました。今はのんびりしています。アパートは三年前に建てたのですが、なかなか客が埋まりません。」
「お客は寿不動産経由ということですが、アパートの人との交流はありますか。」
「余りありませんねえ。煙たがられるのがおちですから、皆さんを訪問することはまずありません。家賃が入っていないなど必要な時は、手紙をつくって郵便ポストに入れてきます。森山さんは、こちらに越してきて半年位になります。「未だに独身なんです。」と言われたのを覚えています。」
「森山さんが、永島さんに部屋を又貸ししていたことは、ご存知なかったんですね。」
「ええ。まったく気がつきませんでした。」
「アパートのお客さんは、良く代わるのですか。」
「ええ、代わります。入ってくる人も多いんですが、出てく人も結構います。近所にきれいなアパートがどんどん建ってますし、こちらは駅から少し遠いですからね。」
「森山さんと永島さんについて、なにか気のついた事がありますか。」
「そうですねえ。永島さんについては知りませんけれど・・・」
「ほら、あなたあの鍵の話をなさったら・・・。」
夫人が発言した。髪が白く、上品なおばあさん、と言った感じの人だ。村橋がそう言えばというような顔で
「二ヶ月くらい前に、森山さんが、鍵をなくしたと言われて、マスターキーをお貸しした事があります。」
「鍵の管理は、どうなっていますか。」
「最初に入居するときにお渡しします。」
「お客さんがそれを元にスペアを作ることは考えられますか。」
「それは無いとは言えないと思います。」
「そうですか。外にアパートを経営して行く上で、何かトラブルがありましたか。」
「森山さんは、特にありませんでした。他にトラブルという程ではないですが、アリ・サハンが、友人のアジア人を引き入れようとしていたので断りました。そんなことをするなら出ていってくれって。でも一度注意するとおとなしくなりました。三森さんは、エアコンをつけて良いか、と言うので承知しました。それから、あの前世研究会の上杉さんが、ドアに大きな看板を打ちつけて、困ったことがあります。」
「前世研究会?」
「良く分かりませんけれど、催眠術で、患者の前世を、体験させるのだそうですよ。」
「患者は多いんですか。」
「どうですかね。時々女性の信者が来るようです。」
「大家さんとして、迷惑なんじゃないですか。」
「でもね、出ていってくれなんて言うと、うるさいんですよ。信仰の自由とか何とか・・・。いずれは何とかしたいんですがねえ。」
「ところで、これはまだ捜査中で内緒にしておいてほしいんですが、警察ではあの事件は殺人じゃないかと考えているんです。」
「ほお・・・。」と村橋は驚いた様子。依田は、言葉を選びながら、この件について何か参考になる情報は無いか、と聞いたが、知らないということだった。
「死体が発見された時刻、村橋さんはどうしてましたか。」
「ちょうど食事が終わった頃、三森さんの奥さんから電話がかかってきましたので、すぐ飛んでゆきました。」
「アパートの契約書を見せて下さい。」
「かしこまりました」
「奥さん、他に何か気がつかれたことがありますか。」
「いえ、特にありません。」
村橋夫妻は、容疑の外だろうか。物理的には合鍵があるから、昼間アパートに出向き、留守を確認して部屋に入り込み、毒をいれたということも考えられない訳ではない。ウイスキー瓶の取り替えも可能である。しかし、永島との接点が見つからない以上、動機が不明で、何とも言えないと考えられる。

アパートの一階の住人の聞き取り調査は、主として若い丸田に行わせた。依田は、もっぱら補助役に徹する。
一○二号室のアリ・サハンは、小柄でなんとなく抜け目のない感じの男だ。東南アジア人特有の浅黒い肌、ちょび髭、大きなきょろきょろ動く目、巧みな日本語。
「お役に立てることだったらなんでもお話しします。警察へのキョウリョク、シミンのつとめですねえ」と調子だけはいい。パスポートの提示を求めると、一応正規のビザを持っていた。家族は国に残し、ビジネス目的で、半年前に来日している。
「翔子さんのことはよく知っています。でも森山さんのことは知りません。ああ、あの人、永島さんと言うんですか。前の人、ああ、そう言えばいましたね。でもいつも黒い眼鏡かけてたし、挨拶するとそっぽを向くから、印象がうすい。」
森山一夫なる偽名を使い、隠れるように住んでいた男は、一体何者なのだろう。
「昨日の八時過ぎに、事件現場を見に来ましたね。あの前は何をしていましたか。」
「語学学校の教材を作っていました。」
「そうですか。ところで、アリさんが、部屋を出る前に、誰か階段を登ったり、おりたりしませんでしたか。私たちが来る前に、死体を発見した時にあったはずのウイスキー瓶が、なくなってしまったのです。」
「そうですか。・・・・気がつきませんでしたねえ。」
一昨夜の永島の行動について尋ねたが、語学学校が遅かったため知らない、と答えた。
「このアパート、気に入ってますか。」
「うん、好きだけど、いろいろあってキチガイ部落みたい。十日くらい前も、前世研究会のおじさんと永島さん?大喧嘩した。」
「そりゃ、初耳ですね。どんな理由ですか。」
「夜遅く、ミスター永島が、酔って帰ってきて、おじさんと鉢合わせしたんだ。おじさんが「あなたに悪い背後霊が見える。一度見てあげよう。」って言った。宣伝なんだろうけれどね。そしたらミスター永島が「うるさい、インチキ祈祷師め!」って断った。そこでおじさんは、きっきっと笑って「恐ろしや、前世は牛か、馬か、たたりがあるぞ。」って冷やかした。頭に来たミスター永島が、ポカリとやった。おじさんは一発殴られて「この罰当たり!」なんてわめいていた。それから二人は険悪な仲だよ。」
「君はミスター上杉の前世研究会をどう思う?」
「分からない。でもキテレツね。僕、回教徒。関係ないね。」
「他には何か気がつきましたか。たとえば三森夫婦なんか・・・。」
「どうなんだろうねえ。夫婦のことは良く分からないや。」
「三森夫人は、あなたと親しかったのですか。」
「そんなことないよ。あの人、どちらかというと、ミスター永島と親しかったんじゃないか。一、二回、門のところで話し込んでいるのを見たことがある。話しかけようとすると、あわてて離れて行った。」
「片岡嬢はどうですか。」
「美人のOLさんと言う以外には、分からないな。」
「他には・・・。」
「他に・・・・。ああ、島津のおっちゃんが、一ヶ月くらい前、競馬で大穴を当てたらしい。駅前でぱったりあったら、すごくご機嫌で、ビールとラーメンをおごってくれた。」
と笑いながら言う。
「おっちゃんの評判は、どうですか。」
「ああ、あの人はいい人よ。三森さんなんかにえらくやさしい。赤ちゃんをみると、おっちゃんはメロメロだよ。」
「ふうん・・・。」
島津は、案外人が良くて、子供好きなのかも知れない。
アパートの日常の人間関係が次第に明らかになって来た。ただ、三森夫人の「階下の男の方たちは、こちらに来て日が浅いので、良く知りません。」という証言は、ちょっと怪しいように思えてきた。
アリ・サハンについては、最近の事件をおっている内に、彼の勤務している松永製薬が、かって風邪薬の副作用で訴えられていることが分かった。しかし、この話が、混入事件と直接関係あるかどうかは不明である。

和服姿ででてきた上杉氏は、小柄でやせており、目だけがするどく神経質な感じだ。五十過ぎだろうか。ちょび髭が、ピンと跳ね上がっている。話し方は穏やかだが、断定的で自己の主張をあくまで押し通そうとする。
「前世研究会というのは、どういうことを研究するところなのですか。」
「催眠術を少し進化させた物と思っていただけば良い。催眠術は現在の潜在意識下のものを取り出す。こちらは患者を催眠状態にする事は同じなのじゃが、神の御前で、幼児期から前世まで意識を飛ばし、その時の自分を実体験してもらうのじゃ。その体験談を受けて、治療を行うのじゃ。」
「神の御前?」
「そうじゃ、天照大神の御前でじゃ。」
そんなことが、本当に出来るのかな、と思うが、依田は、丸田にまかせて、尋問は差し控えた。
「どういう効果があるのですか。」
「心の底が明るくなり、自分を再発見することができますのじゃ。」
丸田の話のさせ方がうまかったのか、上杉は若い時の苦労話、患者の前世体験談、トランス状態におかれた患者の話など、止めどなくしゃべった。そして最後に「刑事さんも治療を受けて見られませんか。」と誘う。丸田は、苦笑しながら辞退する。
「アパートの他の人についてはどう思われますか。」
「怪しげな人ばかりですな。前世はそれこそどんなことになっているやら。島津は競馬きちがいの上、酒きちがいじゃ。前世は馬だったかも知らんぞ。あれじゃ、シンショウ持たん。外人がイスラム教徒だ、なんて言うのは名ばかりじゃ。あそこには、時折おかしなのが出入りしておるぞ。」
「三森さんや片岡さんは」
「三森夫人には、凶兆が出ておるぞ。」
「凶兆?」
「悪い背後霊が見えるのじゃ。前世のたたりじゃろう。」
どこまで真剣なのか、真面目に聞いているとばかばかしくなってしまう。丸田は、事実だけを確認することにする。
「昨日の七時半から八時までどうしていましたか。」
「思いだせん。鰺の干物でも焼いておったかも知らん。」
「こちらは警察なんですよ。真面目に答えて下さい。二階に警察や救急隊が来たことは気がついていたんでしょう。」
「ああ、しかしおれには関係がない。」
「分かりました。この室の前を怪しい者が、通りませんでしたか。鰺を焼いていたなら、台所にいたんでしょう。それなら、気づく筈ですね。」
「窓を閉めていたから、はっきりしたことは分からん。二度ほど人が通り、階段を上り下りする音は聞こえたがね。」
「一昨日の夜はどうしてましたか。」
「一昨日の夜?記憶にないが・・・・ああ、テレビで巨人阪神戦を見ていた。それにしても阪神は打てんもんだな。」
あくまで茶化したような答え方だ。むっとした丸田が「じゃあ、アリバイは無い訳だ!。」ときつく言うと、人が変わったように急に機嫌が悪くなった。
「それがどうしたのじゃ!」
「十日ほど前、死んだ永島さんと大喧嘩をしましたね。」
「あれはあいつが、罰当たりなことを言うからじゃ。」
それから、永島の悪口がぽんぽん飛び出したが省略する。反論したら「出て行け!」と怒鳴られ、灰皿が飛んできた。語り口とは裏腹に、大変な気分屋だ!丸田が「公務執行妨害で逮捕する!」とどなると、とたんに静かになった。
上杉が、永島に殴られた腹いせに毒物を混入したのでははないか、とも考えられた。確かにその可能性はなくはないのだが・・・・・。

玄関をノックすると、ドアが細目にあき、無精ひげをはやした島津老人が顔をだした。薄汚れたランニングシャツに折り目のとれたズボンが、何かわびしげに見える。
「警察の者です。昨夜の事件について聞かせてくれませんか。」
「どうぞ。あがって下さい。」
しかしシンクタンクには洗ってない食器があふれ、部屋にはゴミが散乱し、どこで話したら、良いやら・・・。流し台の下にゴキブリが一匹つぶれている。
丸田が、氏名、年齢を聞いた後、現在の状況などを聞くと、ぼそぼそとしゃべりだした。
「女房がいるんですが、里に帰っちまいまして・・・。子供はいません。」
「仕事は・・・・。」
「半年前まである会社に嘱託として勤めていたんですが、合理化で解雇され、いまは失業中です。」
「昨夜八時過ぎに、事件現場を見に来ましたね。あの前はどうしておりましたか。」
「テレビを見ていたんですよ。表が騒がしいから首を出したところ、外人がウインクするんで、つられて階段を上がっていったんだよ。」
「その前、誰か階段を上がり下りしなかったですか。」
「気がつかなかったねえ。」
「一昨日の夜、永島さんについて、何か気がつきましたか。」
「そうそう、九時頃、どこかのお姉ちゃんと一緒に階段を登っていったようね。うん、お姉ちゃんはすぐ帰ったよ。何を話してたかって・・・。聞いていた訳じゃないから・・・でも森山はしきりに「ありがとう。よってけよ。」とか言っていたな、それに対して、お姉ちゃんは「駄目よ、用事があるのよ。」なんて言っていた。」
これは三森夫人の証言と一致する。
「一ヶ月くらい前に、すごい馬券を当てられたようですね。どのレースですか。」
「事件にどう関係があるんですか。もう、使っちまったから忘れました。」
挑戦的だったが、脅すと福島競馬のxxレースで大穴を当てたと答えた。丸田が、本当にそのようなレースがあったかどうか確認したが、問題なかった。
「アパートの他の人について、何でも良いから教えて下さい。」
「別に・・・。」
何か怯えている様子で、眼鏡の奥のどんよりとした眼がきょときょとと動いている。
「三森夫婦はどうですか。」
「親しくないから知らないよ。」
そのとき黙って聞いていた依田は、ふと島津の目元や頬の感じが、なんとなく三森夫人に似ていると思った。脇から「お知り合いじゃないんですか。」とカマをかけてみた。「とんでもない。」と答えたが、何か動揺しているように見えた。
再び丸田が質問する。
「片岡さんはどうですか。」
「可愛いお姉ちゃんだね。でもそれだけよ。」
それから彼も、上杉氏が永島君に殴られた話を「いい気味だ」と言う風に話した。
この男は、毒物混入犯としての可能性一体どうなのだろう。ボケ老人に近くすら見える男が、手の込んだ犯罪を犯すだろうか。
十一
三島商事は飯田橋にある小さなビルにあった。
人事部河田氏と永島の直属上長の山田氏の話では、永島繁雄は五年前入社し、昨年係長に昇進した。真面目な好感の持てる男で、性格は格別明るいと言う程でないが、協調性はあったらしい。最近、恋人ができたらしく、楽しそうだった、ということである。
「金銭上とか、女性問題とか、会社で何かトラブルがありましたか。古い話でも結構なんですが・・・・。」
依田が聞くと、二人は顔を見合わせていたが思い当たらない、と答えた。
「恋人の名前は、分かりますか。」
これも、二人ともわからないと答えた。
「会社では、どんな仕事をしていましたか。」
「経理係でした。予算関係を主として担当していました。」
「会社では、どういう人と親しかったのですか。」
山田部長が「親しい人は特にいなかったと思います。」と答えた。
「彼の死因がよく分からないのですが、自殺と言うこと考えられますか。」
二人とも驚いたように口々に答えた。
「ないでしょう。突然死ではなかったのですか。」「少なくとも会社の仕事の上ではないと確信しています。」
「殺されたとしたら、何か原因が考えられますか。」
二人は、顔を見合わせて
「そんな恐ろしいことは、考えたことがありません。山田部長、どうです。」
「ありませんよ。少なくとも私は知りません」
人事部のカードによると、永島は和歌山市のサラリーマンの家庭に生まれ、高校を出て以来、親元を離れている。
彼の日頃の様子を少しでも知ろうと、食事にでて来た若い男を捕まえて、聞いて回った。永島は、経理部で二期上の島田という男と親しかった事が分かった。面会を求めると、島田は気軽に出てきた。日焼けした精悍な顔をしており、スポーツマンタイプの様だ。
「おれは、釣りが好きで、時々、あいつを誘ったことがあるんだ。でも、なんとなく暗い感じがしたな。孤独が好きで、何を考えているか分からない感じだ。」
「女性に対してはどうですか。」
「結構、派手だったんじゃないかな。からかうと、人生は「若いうちが花、おれの好きなように楽しめば良いんだ。」なんて言っていた。」
この辺、河田や山田の証言とは矛盾している。依田は、しょせん職場で上長に見せる顔など、化粧した一面だけ、と言うことなのだろうか、と思った。
「他に気のついたことは・・・。」
「うん、「いつかでかいことやるんだ。会社なんて仮の宿だ!」なんて言っていたな。「どんなことさ。」ってきいたら「ま、世の中、きれい事だけじゃ行かない。」なんて分かった風なことを言っていた。」
「株でもやっていたのかい。」
「そう多くはないが、手をだしていたようだ。」
「アパートを引っ越したことについては・・・。」
「良い知り合いがいて、アパートを安く借りることが出来たと喜んでいた。・・・・」
「知り合い」という言い方に、依田はなるほどと思った。
十二
事件当夜、永島繁夫と一緒に帰ってきた女の子は簡単に分かった。
永島繁夫の遺留品の中から、駅前のスナック「エスポワール」の名前の入ったライターが、出てきた。彼女はそこで働くかおりだった。
背が低く、丸顔で、はち切れんばかりにころころとしているが、如才なく、好感が持てる。三森の亭主が見かけたという女性に違いなく、おそらく永島の新しく出来た「恋人」だったのだろう。
「永島さんのことでちょっと・・・。」と言うと、近くの喫茶店にやってきた。
これも丸田部長刑事に主として質問してもらった。
「永島さんと、あなたの関係を教えてください。」
「実は、あの人と私は、和歌山の出身で、中学校が一緒だったんです。それが偶然三ヶ月くらい前に新宿でお会いして、店の方にも、たずねて来られる様になりました。」
「じゃあ、彼とは引っ越して来る前から知り合いだったわけだ。」
「ええ、彼は、もと中野のアパートに住んでいました。」
「好きだったんですか。」
「そういう訳ではないのですけれど、昔からのお知り合いですし、店にとっても大事なお客さんですから・・・。」。
「一昨日の夜の様子を教えて下さい。」
「ちょうど私は非番で、永島さんがデートに誘ってくれたんです。それは良かったんですけど・・・・。」
「何かまずかったのですか。」
「彼は地方支店に廻されることになった、とかで少し荒れていたんです。」
「おそらくあなたが、生きている永島さんに最後にあった人だと思うのですが、その時の経過を教えて下さい。」
「夕方、新宿で会い、お食事をしました。それから小田急の裏にあるヘイグとかいうバーに行って、少し飲みました。その後、新しいアパートに移ったからこいって、しつこく誘われました。」
「それでメゾンドブランまできたのですね。でも室には入らなかった。」
「ええ、ちょっと危険に感じましたし、あの日は、弟がちょうど田舎から出てきていて、帰りたかったんです。」
「断ったら怒ったろう。」
「ええ、ぷっと膨れて「しょうがねえ、一人で飲みなおすさ、なんて言っていました。」」
「彼は酒は強いの?」
「いえ、弱い方です。あの日もビール一杯で、まっ赤になっちゃいました。私の方が強いくらいです。」
「あの時、なにか彼にプレゼントしたんですか。アパートの人が永島さんがありがとう、っていうのを聞いたっていっていましたが・・・・。」
「このまえ、ブローチを買ってもらったので、ネクタイのお返しをさし上げました。」
彼女の証言で、死亡直前の彼の行動がはっきりした。永島は、部屋の前まで連れてきた彼女に帰られて、面白くなかったに違いない。そこで、寝る前に一杯やったところ、それが毒入りだった、という事なのだろう。
永島は、彼女に夢中だったようだが、彼女にとっては単なる客の一人にすぎない、ようにも思えた。
永島が、地方支店に廻されることのなったという話は、会社に確認した結果宇都宮支店と言うことであった。
十三
一応の聞き取りを終えたので、依田と丸田は、北田警視を交えて、もう一度考えて見ることにした。ところが冒頭から北田のお小言。
「困るじゃないか。もう少しうまくやってくれなけりゃ。新聞記者がかぎ当てて、警察は他殺と考えているんですか、毒物は青酸化合物ですか、ってうるさくて仕方がない。」
「申しありません、努力したのですが」
「森山一夫の尻尾は捕まえたのか。」
「いえ、まだ・・・。一応ここまでのところをご報告と思いまして・・・。」
と依田は、丸田に報告を促した。
「順を追って考えますと、動機は不明ですが、アパートの何者かが、事件より大分前に二○二号室に忍び込み、ウイスキー瓶に青酸化合物を混入しました。犯人は、ウイスキーが飲まれるのを待っていました。見込み殺人と言うわけです。そして事件の日、又貸しで入った永島が飲みましたが、犯人の方は、気がつかなかったのです。ところが翌日片岡と三森が死体を発見し、騒ぎ出して、飲んだことを知りました。そこで犯人は、二人の隙を見て二○二号室に入り込み、ウイスキー瓶を回収、グラスのウイスキーを新鮮なものに入れ替えたという訳です。」
北田が不思議そうに発言した。
「なぜ、そんなことをしたのだろう。」
丸田が、えたりと答える。
「難しいところですが、犯人とすると、一つは、グラスや蒲鉾から毒が検出されなければ、突然死ですんでしまうかも知れない、と期待したと考えられます。次にウイスキー瓶から足が着くかも知れないと考えた。そんなところじゃないでしょうか。」
終わった後、今度は依田が質問した。
「犯人は、青酸化合物を混入したとき、どうやってあの部屋に入ったのだろう。」
「偶然、ドアが開いていたケースが考えられます。鍵を使ったとすると、大家が二ヶ月くらい前に森山一夫が鍵を紛失したので、マスターキーを貸したと言いましたね。」
びっくりしたように北田が言う。
「その紛失した鍵を使ったと言うのかね。しかし殺されたのは永島だよ。」
考えていた依田が発言した。
「この場合、侵入方法、殺害しようとした人物、毒物混入時期に相関関係があります。侵入に森山が紛失した鍵を使った場合、殺害しようとした人物は森山一夫、混入時期は一ヶ月以上前と言うことになります。大家の鍵を使ったとか、偶然あいていたと言う考えに立つと、殺害しようとした人物も、混入時期も絞りこめません。」
「うん・・・。」
沈黙が流れた。丸田が話を引き取った。
「それでは一応鍵の問題はおくとして、容疑者として考えられる者を検討してみます。」
丸田は聞き取り調査の結果を手短に報告した。そして「今の段階で動機がありそうなのは、喧嘩をした上杉くらい、他の容疑者については、物理的には犯行は可能ですが、動機は分かりません。」とまとめた。
依田が、それを評して発言した。
「上杉を疑うためには、まだまだ検討不足だと思うよ。預金通帳と振込控えは、どう考える?。」
「森山一夫に振り込まれた三万円は、家賃の意味でしょうか?。」
「私はそう思う。しかしあそこの家賃は、月八万円ということだ。そうすると安すぎる。何かあるような気がする。もっと大事なのは、二度にわたる五十万円の入金だ。送り主のコズエというのは、一体誰なんだ。」
「まだ判明していません。」
「その辺が鍵になるのじゃないか。五十万円というのは、強請かなにかの金かも知れない。そうとすればその強請られた誰かが、彼の抹殺を考えたのかも知れない。」
「そうですね。」
依田がちょっとお説教調で意見をのべ始めた。
「事件が起こると、我々はついそこだけ見るだろう。しかし事件は、犯人が、問題解決手段として、ある行為を行った結果だ。行為のもとになる動機を形作る物語は、ずっと前から芽生えていたことが多い。推理小説には、よく、ある人物にひどい目にあった、そいつは行方不明になっていたが、何年か後に偶然そいつを見かけた、それで殺害した、等というのがある。今回の場合、そのルールがあてはまるかどうかは予断を許さないが、とにかくもう一度、容疑者や被害者のこれまでの軌跡を調べて見たらどうだろうか。」
「そうだ、さすがに先輩はいいことを言う。見ならわなけりゃ、いかん。」
と尻馬に乗る北田に、丸田は、恐れ入ったと答えざるをえない。
「そうですね。過去を調べると、容疑者の全体像が分かりますね。」
「少なくともあのアパートにいる人間くらいは、洗わなければいけないだろう。各人がどういう性質で、どういう経過を経て、あのアパートに住むようになったか、そしてその人間の間に何かつながりがあれば、見つけなければいけない。」
「分かりました。」
十四
依田と丸田の容疑者の軌跡調べは、個人への聞き取り、戸籍謄本からの追跡、もとの職場や学校への問い合わせ、他警察署への問い合わせなど多岐にわたった。しかし、彼らの人物像を、より深く探り出すことが出来た。
村橋浩太郎 六一歳 無職
長野県上田市の中学校教師の次男として生まれた。一家は、彼が小学生の時に上京し、世田谷区に居住。成績は中の上。S大学経済学部卒業後、かえで銀行入社。結婚して子を二人なしたが、すでに独立。七年前に妻と死に別れた。四年前に知人の紹介で、現夫人の上条小百合と再婚。昨年会社を定年退職。性質穏和で、現在は悠々自適。
片岡翔子 三二歳、OL
鎌倉のサラリーマンの家庭に生まれた。子供の時から活発で、頭も良かった。高等学校の時に母親が亡くなり、父はまもなく再婚した。M女子大英文学部卒業で、テニス部に属していた。卒業後、家に居づらくなり、不安はあったが、親元を離れた。都心の三山物産に勤め、現在に至っている。職場での評判は悪くないが、一部にキツイとの声も聞かれる。
三森貞夫 二八歳 寿司店職人、富山県出身。漁師の三男として生まれ、地元の高校を卒業後上京、いくつかの店を渡り歩いた後、四年前にいまの店に就職し、寿司職人となった。店に客として来ていたゆかりと愛し合うようになり、二年前に結婚した。バイクが趣味で、休日は、しばしばゆかりを乗せて郊外にくりだす。性格は直情径行で、演歌が好きである。三鷹のアパートに住んでいたが、洗濯物のだしかたでアパートの親父と喧嘩になり、二ヶ月前に今のアパートに引っ越して来た。
三森(旧姓島田)ゆかり 三三歳 主婦
和歌山県出身。庶子。母は飲食店経営。地元の高校卒業後上京、叔父の元に身を寄せながらS大学文学部を卒業し、独立。洋裁店、飲食店などに勤めたのち、貞夫と知り合い、二年前に結婚。現在は主婦業に専念。姉御肌のところがあり、人を引きつける。性質は穏和で、人に尽くすタイプ。六ヶ月前に長女のさやかが生まれた。
彼女について、面白いことが分かった。彼女は六年ほど前、渋谷のスナックで働いていたが、その時の店での名前がコズエだった。
永島繁夫 二九歳 会社員
岡山県出身。サラリーマン家庭で生まれ、地元の高校を卒業したのち、上京。S大学商学部を卒業し、三島商事に就職。独身。釣りと推理小説が趣味のようだ。真面目だが、根は暗いとの声も。「将来はでっかいことをやる。」と友人に語るなど、分からないところがある。少し甘いマスクが女性にもてるようだ。
島津博夫 五五歳 無職
中国大連市で、満鉄職員の長男として生まれた。引き上げ時の混乱で両親死亡、横浜の叔父一家に引き取られる。高校卒業後、和歌山のJ社に勤めたが、帳簿のごまかしが発覚し、懲戒解雇。三五歳の時に、横浜にある久保金属に就職、現夫人と結婚した。性格は気弱で、酒と競馬が趣味である。五十歳の時、子会社の久保金属販売勤務となったが、勤務態度不良で、合理化も重なり四ヶ月前に解雇された。子はない。
上杉良三  四八歳 宗教家
茨城県の寺の三男として生まれる。高校時代柔道部に属し、活躍したのち、鍼灸師をめざしたが、女性患者と問題を起こし挫折。いくつかの職業を経たのち、米国にわたり、有名な催眠術師Dの師事を受けた。帰国後、メゾンドブランに住みつき、前世研究会を開くと共に、患者の診断を行っている。
アリ・サハン 三六歳 サラリーマン
メダン島出身。ジャカルタに家族がいる。松永製薬勤務。神田T語学学校インドネシア語教師。その他詳細不明。
この表を見ながら、彼は二つばかり面白いことに気がついた。第一は村橋、三森、永島の三人がともにS大学出身であること、第二は島津が三森の出身地和歌山で働いていたことがあることだ。これらの事実は犯罪とどうからんでくるのだろうか。
「コズエが三森ゆかりということなら、動機がはっきりしていますね。まず彼女を尋問する必要があります。」
「うん・・・・。」急に丸田に言われて、依田は上の空の返事をした。
十五
依田は、三森夫人を呼び出すに際し、今までの捜査結果をもう一度チェックした。何かある、何かとっかかりになる物がある・・・・、その結果、十分とは言えぬまでも、一、二、隠し玉を持って尋問することが出来た。
呼び出しを受けて三森夫人は、なぜ私が再度聴取を受けるのか、分からないと言う様子で出頭してきた。相変わらず、さやかちゃんを胸に抱いている。依田は、出来るだけおだやかに聞くようにした。
「あなたは、前から永島さんを知っていたのでしょう。そして永島さんから、何かを種に強請られていたのでは無いですか。」
三森夫人は、呆気にとられた顔をした。しかし、一瞬否定する様子を見せたものの、依田の手の内を読んだらしく、あっさりと白状した。
永島は、S大学の後輩だが、一時恋人同士だった。しかし、彼の優柔不断なところに嫌気がさし、別れた。ところが結婚してまもなく彼と再会した。彼は、激しく復縁をせまり、そうしないなら、三森に今まであったことを話す、と脅した。
それでも構わぬと思い、「どこにでも話したら・・・。」と一度は追い返したが、夫が嫉妬深いこと、しつこいことを考え、へそくりから、少しばかり貸した。最後に「主人には内緒にしてください!」と懇願した。
本題に入ることにし、依田は、若干のはったりをかませた。
「ところで三森さん、あの部屋に、片岡さんが入る前に入ったんじゃないですか。」
「いえ、入ってません。」
「死体の位置が少しおかしいのですよ。少し引きずった後らしい跡がみえるんです。それからテーブルから離れすぎています。」
「いえ・・・・。」
と答えたが、明らかに動揺している様子。
「ガス台の上に夕刊がおいてありましたね。入らないで、どうやって運んだんです。それから、片岡さんから連絡を受けて、死体も見ること無しにすぐ「警察!」と言われたでしょう。普通は、まず死体をチェックして消防署と言うものですよ。」
夫人は抗弁しても無駄だ、と考えたようで、ゆっくりとうなづいた。
「すみません。届け物があった時はお願いします、って鍵を預かっていたんです」
「その時の状況を教えてください。」
「六時頃、回覧番を届けにゆこうと入りました。ドアは閉まっていました。声をかけましたが返事がないので、食堂を覗き込むと、あの人が倒れていたんです。椅子の上に寄りかかるようにして・・・。それで動かしたら床の上に転がっちゃったんです。元の形に戻しておこうと思って少し引っ張ったんです。でも、重たくて・・・・。」
「その時、どうしてすぐ警察に届けなかったんですか。」
「そう思ったんですけど、私と彼の関係が発覚するかもしれない、そうしたら疑われないとも限らない、第一発見者にならない方がいいと思いました。それでドアを開けたままにして外に出たんです。すみません。」
「それで・・・。」
「お買い物をして戻ってきたとき、片岡さんを見かけたんです。「彼女がみつけてくれるかもしれない。」とそっとついてゆくと、案の定、永島さんの部屋にはいって行くじゃないですか。それで様子を伺おうとしたら、すぐ彼女が出てきて、はちあわせしちゃったんです。」
「それだけですか。」
「ええ、それだけです。」
「片岡さんが、死体を見つけた後、ウイスキー瓶を持ち去りませんでしたか。」
「いいえ。もし、そうなら、永島さんが、倒れているのを見つけた時に、持って出たはずです。」
絶対とは言えぬが頷ける説明だった。「ウイスキー瓶に青酸化合物をいれたのではないですか。」とはったり半分で聞くと、彼女は「信じてください!。私は、人を殺す様なことはしません。どうやってそんな恐ろしい物を手にいれるんですか。」と涙を流して、激しく抗議した。さやかちゃんがわーっと泣き出した。丸田がおろおろしだす。これはかなわない!
しかし、それだからと言って、疑いが晴れる訳ではない。三森ゆかりを帰した後、丸田は主張する。
「彼女が、永島繁夫に強請られて、青酸化合物を混入したという線は、どうも捨てがたいですね。鍵はあったのですから。五十万円は、彼女にとっては決して少ない金じゃない、と思います。これからも起こるかもしれない、と考えた結果、殺す計画を立てた、とも考えられます。」
「しかし、自白がないと決め手にはならないね。あの青酸化合物の出所の捜査はどうなっている?あの出所がわかれば、犯人であるかどうか、はっきりするのだが・・・。」
しかし地道に徹底的に、捜査したにも関わらず、彼女が青酸化合物を手に入れた痕跡は、どこにも認められなかった。また、彼女をなんども呼びだし尋問したが、ついに自白はえられなかった。
十六
事件はデッドロックに乗り上げたように見えたが、思わぬところから進展しだした。
山梨県K村。もうすぐ紅葉の季節である。
その日、六五歳の川村氏は、車の多い、県道を離れてうっそうとした青木ヶ原樹海の中に山菜をとりに入った。山菜さがしと足場の悪さで足元に気を取られていた川村氏が、何かが頭に当たり、顔をあげると黒っぽいものが目をふさいだ。
そのだらりとした感触に、おそるおそる目線をあげてゆくと、黄色いロープを首に巻きつけたひからびた男の姿が目に入った。緑色のビニールの雨合羽をきて、まるで川村氏を上から睨み付けているようだった。
腰をぬかさんばかりに驚いた川村氏は、「ぎゃーっ」と一声あげると坂道を転がるようにして、樹海をぬけ、近くのガソリンスタンドに飛び込んだ。
「し、し、死んでる、警察、警察!」
通報でかけつけた富士吉田署員が調べると、内ポケットに入っていた定期入れから身元が割れた。佐伯大五郎。四五歳。男は神奈川県海老名市xxxx在住。
検屍の結果は縊死、死後一ヶ月。外傷はなし。
しかしそれ以上に警察を驚かせたのは、佐伯氏があの失踪していたマンホール事件容疑者の元下水道局職員だったことだ。
足元に置いてあった風呂敷きの中から、数通の手紙が見つかった。
「貴様が何をやったか、胸に手をあてて考えて見ろ。このままですむと思うなよ。どこまでも追いかけるぞ。」
マンホール事件そのものの名こそあげていないが、それをさした脅迫状であることは明らかだ。遺書らしいものは無かった。
夕食後、夫として権威のちょっと弱い村橋浩太郎が、台所でコーヒーを入れている。妻の小百合は、茶の間でさっきまで見ていた新聞を投げ出し、テレビを見ている。
「あら、あなた、大変!あのマンホール事件の容疑者が青木ヶ原で自殺したわ。」
コーヒーカップを二つ盆に乗せて、浩太郎が入ってきた。テレビ画面に映された顔写真を見て、スットンキョウな声をあげた。
「あれ、いなくなった森山さんじゃないか。」
十七
村橋浩太郎からの届けを受けて、捜査会議が再び開かれた。出席者は北田警視、依田警部補、丸田部長刑事、それにマンホール事件を担当していた北多摩署の小長井警部補。
北田も、今日は真剣である。
「もう一度、マンホール事件の被害者についてまとめてくれますか。」
小長井警部補が、詳細を説明したのち、最後に言った。
「殺された大道寺綾子二八歳は、普通のOLなのですが、彼女のおじさんというのが、広域暴力団関東菅笠会の親分なんですよ。それで復讐に訴えるのではないか、と心配していたのですが。」
あいづちを打ちながら聞いていた依田が、言った。
「やはり森山一夫の方を狙った誤認殺人だったという訳だな。」
丸田は「そう考えられます。」と頷いた後、説明を続ける。
「佐伯大五郎は、マンホールで発見された娘の親族、おそらくは榊原に、驚かされたに違いありません。彼は逃げ出して、メゾンドブランに森山一夫の名でいついた。しかしそこも嗅ぎつけられてしまった。そこでたまたま知った永島繁夫に、格安の料金で自分の部屋を又貸しした。ただし条件を付けましてね。「あくまで僕の名前で住んでくれよ。大家と顔を合わすことは無いだろうから、大丈夫さ。」ところがそうとは知らない犯人は、密かに忍び入り、ウイスキーに青酸化合物を仕込んだ。佐伯は、ウイスキーを偶然に飲まなかった。永島繁夫も下戸だったが、あの日、人事異動で宇都宮に飛ばされる、彼女には冷たくされる、で面白くない。そこで棚に残っていた奴を取り出して飲んだところ、見事に殺されてしまった、と言うことだと思います。」
「森山一夫は、永島繁夫に自分の名前を語らせて、誤認殺人を起こさせた、とも考えられるわけだな。」
北田が、最後はおれが締めくくるとばかりに、にやりと笑って言う。
「ところが関東菅笠会は、殺したのが永島であることを知ってしまった。そこでさらに探索を続け、とうとう佐伯大五郎の所在を嗅ぎつけた。そして青木ヶ原で、自殺に見せ掛けて処刑してしまったと言うことか。」
依田が不安そうに言った。
「殺人の証拠は出たんですか。」
「いや、富士吉田署に問い合わせて見ましたが、ありませんとの事です。」
と丸田。それを聞いて、依田がぽつりと言った。
「それじゃあ、単純に自殺だな。」
北田は依田をにらみつけて
「結局、毒物混入犯は大道寺の親族、多分榊原ということになるんだな。」
まさか、と丸田は軽蔑したような顔。依田がまとめるようにして言う。
「こういう風に考えられないでしょうか。榊原が、殺人を誰かに依頼したと考えるのです。そこで依頼する者、たとえば榊原の立場からすると、アパートにいて彼が付け入りやすい人物を選ぶことになるでしょう。金で動かすわけには行きませんからね。」
こうなってくると、リストから落とした片岡翔子、宗教家、外人についても再度捜査する必要が出てきたようだ。犯人は、片岡翔子なら彼女の男関係あたりから付け入ろうとしただろう、アリ・サハンなら何かの取引関係から接近したかも知れない、あの宗教家なら、インチキ診療を種にしただろう、島津老人ならずばり、金と言うことになる。人には誰にも一つや二つ、弱みがあるものだ。
十八
その夜、依田は、もう一度捜査資料を読み返して見た。得られた情報から、考えられる物をすべて書き出してみた。疲れ果てて、寝床についたときふと、あの上杉の言っていた言葉に気がついた。
「二度ほど人が通り、階段を上り下りする音は聞こえたがね。」
上杉は一○五号にいるのだから、北側の階段を通る音は聞こえないだろう。すると、この階段は手前の階段ではなく、南側の善福寺川に面した非常階段の事だろう。依田が発見したとき、アリ・サハンもその後ろから来た島津も、北側の階段を登ってきた。もちろん救急隊員も依田たちも北側の階段を使っており、非常階段は使っていない。
南側の非常階段を使った者の目的は、三森夫人、片岡嬢に気づかれずに、あのウイスキー瓶を回収することだったに違いない!。考えついてから、依田は「こんな単純な話だったのか。」と苦笑いした。
翌朝、一○一号室の捜索令状を取り、急襲した。鍵がかかっていた。依田と丸田が、大家の立ち会いで、室に入ってみると、もぬけの空で、机の上に依田あての一通の手紙がおいてあった。
「依田警部補殿
あの事件が捜査中にもかかわらず、突然私が旅立つことをお許し下さい。
実は永島繁夫殺人犯は、この私なのです。そのご説明だけでもしておこうと思って、筆をとりました。
私は、久保金属販売という吹けば飛ぶような会社の嘱託で、貧乏暮らしを続けていました。しかし、年齢や勤務態度の問題で、半年前に解雇され、完全に収入の道をとざされました。私の競馬好きも、生活苦に追い打ちをかけました。やがて妻は、愛想をつかして私の元を去ってゆきました。
男というものは、誰かのためにという気持ちがあると、それでも頑張るのですが、いなくなると途端に気がぬけたようになるものです。私は、それを機会に生きようが、死のうがどうでも良いという気持ちになりました。
そんな私が、三ヶ月くらい前、競馬仲間の「ブーチャン」と言う男から「良い仕事があるから手伝わないか。」と誘われました。
仕事は二○二号室の鍵を手に入れることです。
「目的は言えない。あんたは頼まれた仕事だけをすればいい。」とのことでした。
私は、一ヶ月後、森山一夫のちょっとした隙を見つけ、鍵を手に入れました。それなりの金が支払われました。実は競馬で儲けたと言うのはこの金のことですが、悪銭身につかずで、あっと言う間に無くなりました。
すると再びブーチャンが現れました。
「どや、もう一つ仕事をせんか。今度の儲けは大きいぜ。」
それはその合い鍵を使って森山の部屋に忍び込み、何かの飲み物にブーチャンから渡された白い丸薬を入れることでした。飲み物は限定されませんでした。毒性の物だろうと言う気はしましたが、背に腹はかえられません。
「なあに、誰かが生きるために誰かが死ぬ、当然のことじゃねえか。」とブーチャンは、私を勇気づけました。
いつ飲むか、と待っていたところ、あの日の騒ぎになりました。十分覚悟はしていたつもりでしたが、いざ、警察官や救急隊員の方々がやって参ります、私は、急に不安になってきました。後から考えれば馬鹿なことなのですが、ウイスキー瓶を持ち出してしまえば分かるまい、と言う気持ちになりました。
しかし隙を見て部屋に侵入し、死体を見て他人だと分かったときには、本当にびっくりしました。申し訳ない事をしたとは思いましたが、もう引っ帰す訳には行きません。
ウイスキー瓶をそのまま持ち帰りました。話はそれでそれは一応収まったように見えたのですが、収入のない私は、二度目の金も底をついてきました。今度は借金取りが、私を訪れるようになりました。
もう、どうにもなりません。この世は苦しみの連続、逃れるにはこの世という舞台からおりることしか残されておりません。  
いろいろお世話になりました。
さようなら。     島津 博夫拝」
くずかごの中から、おびただしいサラ金の広告、計算書、督促状、各種支払いの請求書、税金の督促状等が発見された。島津は、金目の荷物は、ほとんど持ち去っていた。電気とガスはいつの間にか止められていた。
食器棚の中から青いガラス瓶とジョニ赤が見つかった。ガラス瓶の中の白い薬品は、工業用の青酸カリであることが判明した。また、ジョニ赤の底にわずかに残っていた残りからも青酸カリが検出された。
さらにその後ろから、女物の封筒が発見された。ひっくり返すと、下の方に小さく「ゆかり」と書いてあった。中はからだった。依田は、その封筒をそっとズボンのポケットに押し込んだ。
荻窪警察署は、早速警視庁の協力を得て、島津の手紙に言うブーチャンの探索に当たった。しかし、どこにもそれらしい人物は発見されなかった。脅迫者が、自分の所在をはっきりさせるような証拠を残す様なわけはなく、最初から無理な捜査だったのかも知れない。
関東菅笠会の榊原が、参考人として事情聴取を受けた。しかし、彼は「ブーチャンという男は、聞いたことがない。」と主張した。
永島繁夫殺害犯は私、と書いた島津老人の行方も知れなかった。依田は、どこかで人知れず息を引き取っているのかも知れないと考え、行き倒れ者など身元不明死亡者の調査を行ったが、該当者はいなかった。
やがて、島津老人の形だけの捜査は続いているものの、事件は、なんとなく終わったという感じを与え始めた。
十九
大分寒くなってきた。冬将軍がそこまでやってきている。久しぶりにのんびりした依田は、丸田を連れて、駅前の大衆酒場「大天狗」で杯を傾けていた。ひとしきり飲んだ後、依田がぽつりと言った。
「島津が見つからず、ちょっと残念な結末だな。なかなか推理小説のエンデイングみたいに格好良く行かないね。」
「そうですね。しかしあの告白書で大体の真相が分かりましたね。」
「真相?君、あれで真相が全部分かったと思うのかい?」
「はあ・・・」
意外な問いかけに、丸田は怪訝な様子。
「私は、真相は違うと思う。あの手紙の通りという可能性もないとは言えないだろう。しかし、この説は二つばかりそうじゃないと思わせるところがあるんだ。」
「と言いますと・・・。」
「まずあの酒につかったしまりのない老人が、一人で鍵を盗み、留守中に青酸カリをウイスキー瓶に入れるような器用なことをするか、ということだ。私は信じないね。それから森山一夫が、永島繁夫に変わって一ヶ月が経過しているだろう。混入後、島津は、何時ウイスキーを飲んでくれるか、と気にしていたに違いない。二○二号の住人が変わったことに気がつかない筈はないんだ。気がつけば、無用な殺人は避けようとしたろう。彼は人はいいんだから。盗んだ鍵を持っていたから、部屋にはいつでも入れたはずだ。それをあえてしなかったのはどうしてか分からない。」
「なるほど・・・・。そうでないとすると・・・・。」
「他の人間には黙っていて欲しいんだが・・・。君は、三森ゆかりと島津老人について何か感じなかったか。」
「何かと言いますと・・・・。」
「うん、僕は親娘じゃないかと思うんだ。顔つきが似ていると思わない?。島津が和歌山でJ社に勤務していた頃、三森ゆかりが、生まれているんだ。それにアリ・サハンの発言によれば、島津は、彼女とさやかちゃんに非常にやさしかったと言うんだろう?」
依田は、食器戸棚の後ろで見つけた封筒の話をしたい衝動にかられたが、思いとどまった。
丸田は不思議なことを聞くと行った様子で
「そう言えば・・・・。しかし、仮にそうだとするとどういうことになるんですか。」
「ゆかりと島津の共犯だが、島津が罪をかぶったと考えることが出来る。ウイスキー瓶を回収しなかったのは、実は島津は回収するつもりだったが、ゆかりがさせなかった。彼女は、強請ってくる永島繁夫もついでに処分したかった、と言うわけだ。」
「なるほど・・・・。」
「それから、もっと悪く考えると、ゆかりが犯した犯罪だが、島津がそれをかぶったとする考え方だ。つまりブーチャンの話は、全くの作り話で、ゆかりが永島繁夫に強請られて、島津に相談したところ、島津は青酸カリを彼女に与えた。彼女は住人が永島繁夫になってから、あのウイスキー瓶にそれを混入した。そして彼が飲んで、死んだ。病死か事故死ですむことを期待したが、ウイスキー瓶を持ち出したのがボーンヘッドで、ゆかりは疑われ出した。そこで島津に泣きついた。」
二人の間に沈黙が流れた。
「それで、その話をどうなさるおつもりです?」
「どうって・・・。何もしないさ。私が言ったことはみんな推測だよ。島津が捕まれば別だろうがね。そんなことはないだろう。」
「それじゃ、正義に反するじゃないですか。」
「それはそうかも知れないな。しかし、これで、彼女を逮捕してみな、彼女の家庭はどうなる?あの赤ん坊はどうなる?おれはそんな非人情なことは出来ないよ。大体つまらん事で強請ったりする方が悪いんだよ。」
「そうですね。」
「それにだよ。自白が無い限り、親娘の証明なんて言うのは、出来やしないさ。自己破産も申請せずに、老人がこの世の最後の頼みとして、彼女とその家庭を守ってやろうとしているんだよ。それで良いじゃないか。」
「そうですね。」
・・・・・・・・・・
「そろそろ、戻るかね。可愛い奥さんが待っているんだろ。」
丸田は照れながら「いえ・・・・。」とつぶやき、杯をぐいと開けた。(了)