仮面のしたで ・・・ 阿笠 湖南


プロローグ


フレドリック・ブラウンという作家をご存知ですか。彼は長編も短編も、S・Fもなんでもこなす作家ですが、本質的な発想は短編的で、軽妙、洒脱、奇抜な着想、あっと驚く落ちが特色になっています。彼の短編の中に「むきにくい林檎」と言う作品があります。
「村に越してきたアッペル一家の息子アッペルは、何か悪さをされると、実に陰惨なやり方で復讐をする男だった。しかし、証拠を残さないから、誰も追求出来ない。
レスという男が、彼と恋人を争ったが、路上に罠を仕掛けられてびっこにされ、しかもその恋人を奪われ、殺されてしまった。
その後アッペルは、シカゴに出て、悪の道に走ったが、ある時突然村に戻ってきた。昔年の恨みを爆発させたレスは、彼を殴り倒した。その場はそれで収まったが、しばらくしてレスの家が放火され、双子の子供達が焼け死んだ。
怒ったレスは、アッペルの本拠に飛び込み、急所に二発の銃弾を受けながら出てきた。「奴はそれほど剥きにくくはなかったよ。ただ、もっとやりたかったのに、あっけなく死んじまった。」そう言いながら死んでしまった。手から動物の皮をはぐナイフが落ちた。」
こんなお話をしたのは、実は私もむきにくい林檎の皮を、涙を流しながら剥きましてね。そのお話をしようと思うからなんです。

一 若い頃

佐伯昭の手記(一)
少年犯罪記事が、新聞をにぎわしている。
私は、犯罪を犯した少年たちは、本当に運が悪かったのだと思う。一時の感情におぼれて犯罪と呼べる行為をおこした事を非難しているのではない。それが警察沙汰になってしまった事が不幸だ、と言っているのだ。
どんなに紳士面をしている奴だって、後から思い出すと、ひやっとするような思い出を一つや二つ持っているはずだ。その結果が、一歩悪い方向に行ったり、世間に知られたりしていれば、現在の自分はなかったろうというような思い出である。
そのような私の隠された思い出を、話してみようと思う。
私は、昭和十六年、太平洋戦争が始まった年に、長野県小県(ちいさがた)郡XX村、上田市の近くの村の山間に建つ小さな農家の、五人兄弟の末っ子として生まれた。
最初のひやっとした事件は、私が小学校に入る半年前の秋に起こった。
その時は、戦後すぐのころだから、日本全体が飢えていた。
そのあたりの農家は、山の斜面を利用して林檎、胡桃、桑などを植えていた。林檎や胡桃は都会によい値で売れ、農家に貴重な現金収入をもたらした。桑は蚕のえさになる。だから、両方とも、農家は自分の畑を柵で囲って大事にしていた。
秋の日の午後、私は近くの森にある用水池の周りで、ともだちの克二や康雄と遊んでいた。その用水池は、親の目もとどかず、子供たちには絶好の遊び場だった。
四つくらいの女の子が、通りかかった。丸顔の、ほおのやけに赤い女の子で、赤い汚れたセーターと青いつぎはぎのズボンを穿いていた。
懐に林檎を三つ、四つ抱えているのが見えた。克二が声をかけた。女の子がやってきた林の向こうに、大きな林檎林があることが分かっていた。
「そいつは盗んだんじゃないのか。」
「・・・・・違うわ。」
女の子は小さな声で言い、下を向いて、私たちの側を通り抜けようとした。
克二が、手で肩を押すと、ひっくり返った。懐からころころと林檎が転がり落ちた。
私はそれを拾い上げ、池の周りの細い道づたいに逃げようとした。遊び半分で面白がってやったことだった。
「だめー!」
女の子はびっくりするくらいの大きな声をたてて、追いかけてきた。私は振り向きざま、追いすがった女の子を強く押した。
よろよろと女の子はふたたび倒れたが、今度は方向がわるかった。池がすり鉢状になっていたために、そのままずるずると転がるように池の中におちてしまった。ばしゃんと小さな音がした。
「・・・おい、どうする。」
今度は私が驚いて、克二と康雄に声をかけたが、水の中に入って行くだけの勇気はない。「何か捕まるものはないか。」とあたりを探したが、こう言うときに限って適当な木ぎれなど落ちていない。女の子は懸命になって何とかしようとするのだが、池は案外深いらしい。
手を上げて助けを求めているようだった。顔が浮き上がったり沈んだりしたが、そのうちに水中に消えてしまった。沈黙がしばらく、あたりを支配したが、結局私が口を開いた。
「仕方がない、家へ帰ろう。」
「うん・・・・。」
「今日あったことは内緒だぞ。」
「うん。」
「あの子が勝手に落ちたんだからな。」
そんなことを言い合った。林檎は途中で食ってしまった。木漏れ日が何事もなかったように私たちを照らしていた。
夜、女の子の死体が発見された。母親が、娘が夕方になっても帰宅しないものだから、捜した歩いた末、見つけたとのことだ。
あれほど口裏あわせをしたのに、誰かがしゃべったらしい。そこに私たちが居合わせた事が発覚してしまった。
「女の子がすべって、一人で落ちたって言うのか。」
「なぜ助けなかったんだ。」
「なぜ親にすぐ知らせなかったんだ。」
「お前達がいたずらしたんじゃないのか。」
私たちは、親や警察のおじさんたちから、しつこく、何度も聞かれた。しかしそれだけだった。結局「あれは事故。」と言うことで終わってしまった。

林檎事件の後、私は、地元の小学校に入ったが、背が大きく、力も強かったから、喧嘩に負けたことがなく、ガキ大将だった。授業などそっちのけで、遊び回っていた。
学業のほうもどういう訳か、小学校を卒業する頃から頭角をあらわし、人に負けなかった。特に算数が強かった。そのほかの暗記科目も、常に試験前には何が出題されそうか考え、やまを張って勉強したから、成績が良かった。要するに要領が良かったのである。おかげで村では神童と呼ばれた。
体操は、もちろん得意だった。中学校に入ると、新設されたばかりのプールがあったから、ずいぶんと水泳が得意になった。
中学生の時に、私の父が死んだ。アルバイトづけになりながら、私は、上田市にある高等学校を卒業した後、東京の一流大学にすすんだ。しかし、親元からの仕送りは期待できなかったから、汚い学生寮に生活し、いつも金は無かった。

大学三年生の時に、第二の事件が起った。
私の同じゼミに川村という調子の好い男がいた。川村は、いつも髪をなでつけ、紺の背広を着てスマートで、学生のくせに社会人然としていた。聞くところによると、家は鉄鋼会社を経営していているとの事だった。金遣いが荒く、もちろん女学生にもてた。
私はいつも「世の中はどうしてこう不公平なのだろう。」と嫉妬の念を覚えながら、うらやましく思っていた。
そんな私を川村は良く誘い、同時に、私を子分のように使った。その彼がある時、常にない真剣な顔をして言ったものだ。
「一つ相談に乗ってくれないかな。」
「ああ、世話になっている君の為なら、僕はなんでもやるさ・・・・・。何だ」
「実は・・・・・。」
彼はいいにくそうにしていたが、聞き出してみるとなんと「おれの寝たきりの祖父を始末してくれないか。」・・・・・
私は、どう答えて好いか正直わからなかった。気がぬけたみたいに「始末するって・・・・・。」と聞くと、彼は畳み掛けてきた。
「本人はもう意識はないのさ。医者は、後でとやかく言われるのはいやだし、ほっておけば金はどんどん入るから何もしないのさ。家族は情において忍びない。」
「人殺しをやれって言うのか。」
「解釈は任せるよ。頼む、このとおり、」
「・・・・・・。」
「もちろん、お礼は十分するよ。今、君は、高利の金を借りて苦しんでいるそうじゃないか。そんなものは、帳消しにして、十分お釣が来るくらいの事はするよ。」
「何だ、その事を知っているのか。」
「邪の道は蛇。そのくらいわかるさ。」
「・・・・・。」
病院というのは、どんな急患が飛込むとも限らぬから、夜間通用口を開けてある。守衛らしき男がいる事はいるが、明け方など眠りこけている事が多い。
教えられた世田谷のその病院も例外ではなかった。私は、あたりのまだ真っ暗な午前四時頃、玄関脇の通用口からそっと、その病院に忍び込み、運搬用のエレベーターで三階にあがった。
ナースルームにいる看護婦に気づかれぬように、教えられた三〇三号室に向かう。
八月の終わり頃だったから、暑苦しく、どの病室も開けはなしになっており、たやすく入りこむことが出来た。
窓の光だけの暗い一人部屋で、奥のベッドに、やせた老人が安らかな寝息を立てていた。
私は深呼吸し、気持ちを落ち着けた。
用意したクロロフォルムをたっぷり染み込ませたガーゼを取り出し、ベッドの上にのぼった。
馬乗りになって、口を覆う。目を覚ました老人は、びっくりしたような顔をし、手足を動かしたが、すぐ失神した。
両手を首に添え、親指を重ねて、喉仏の下を強く押さえつけた。ごろごろと音にならない音をだし、老人はまた動く様子を見せたが、すぐそのままになった。
全部で十分近く掛かったのだろうか。私にはひどく長い時間に感じられた。
後から、川村が教えてくれた話によると、老人は心筋梗塞による死亡、と言うことになったらしい。私は仕事料、口止め料として川村から、当時としては多額の金を受け取った。
不思議なもので、そんな縁があったせいか、川村とはその後も行き来をしている。

経済学部をどうにか無事に卒業した私は、一条建設に勤めることとなった。
一条建設は、戦後一条大介が始め、急速に成長した建設会社で、中小企業に毛が生えた程度の会社である。
この私が入るには、小さすぎるかもしれない。しかし私は若々しい野心にもえていた。「鶏口となるも牛尾となるなかれ。」と言うことわざを思った。
密かに「この小さな会社を、私の力で大きくしてやる、いつかきっと、この会社の総帥になってやる。」と心に誓った。
入社すると、私は、他の事はさておいて、社長になるにはどう行動する事が、一番賢いやり方か、を毎日考えた。
幸い、私は社長の一条大介に可愛がられた。社長は禿頭で、人のいい田舎のおじさんのように見えた。
会社主催のパーテイのおり、私は大介から一人娘の一条俊子を紹介された。
氷のように冷たく、気高く、美しく、近寄りがたかく感じた。しかし私は臆することはなかった。出世するに際し、最高の切り札である彼女を、なんとかものにしようと、密かに行動を開始した。
いかに自分を格好良く見せるかに腐心し、気の利いた会話を心がけ、さりげないプレゼントで歓心を買うようにした。
彼女が生意気に見える時には自分に「これはビジネスなのだ。」と言い聞かせて、意識して下手に出るようにした。

二 女の幸せ

一条俊子の手記(一)
私は、昭和二一年、一条家の長女として生まれた。
父は、もともと横浜市で大工の棟梁をやっていた。東京や横浜が焦土となって、太平洋戦争が終わりを告げ、マッカーサー司令官の進駐軍がやってきた。
後に戦争で焦土に住宅を失った者は、二千万人を越え、住宅の不足数は四百二十万戸に達した、と推計されている。その様子を肌で実感した父は、かならずや建築ブームが来るに違いないと考えた。
昭和二十二年、父は、大工仲間のみならず、設計者や、経理マンまで集め、小さな建築会社を設立し、社長におさまった。
幸い、父のもくろみは当たり、一条建設は、次第に発展していった。
最初は注文を受けて建築するだけだったものが、建売住宅の販売や公営住宅の建設にもかかわるようになった。さらに土木グループを抱えている強みを生かして、市が行う復興事業等にも食いこむようになった。
おかげで、娘の私は、「社長のお嬢様」として、何不自由ない幼少期を過ごすことが出来た。二人の兄を追いかけながら、私は明るく天真爛漫に育った。大工の娘であったせいか、少しおてんばで気が強く、おしゃべりだったかもしれない。
昭和三十七年、私は、青山学院大学英文科に進んだ。二年生の冬休み、私は学校の友達に誘われて、志賀高原に一週間ほどスキーをしに行った。
私にとって、はじめてのスキーである。立ったまま突然転んでみたり、すり鉢型の斜面を滑り降りると、登りになって止まりようをしらないものだから、そのままお尻から滑り落ちたりした。しかし夕方になってリフトに乗り、ゴーグル越しに夕闇迫る白銀の世界を眺める時、私は何とも言えぬ幸福感にしたった。
初級スクールの教師は、坊城と言った。余り背は高くないが、雪焼けした顔は精悍、黒づくめの衣装がひどく似合った。
夜、一緒に来た友人とホテルのバーで飲んでいると、その坊城が、仲間とやってきた。気の合いそうな者同士は、自然分かるものだ。
坊城が、私のとなりに座り込み、二人は、自然に親しく話し合うようになった。
「また、東京でいつかお会い出来ませんか。」と彼が耳元でささやいたとき、私は照れながらうなずき、住所と電話番号を交換した。
東京に戻って遭う瀬を重ねるうち、それが常態になった。やがてそれなりの関係ができ、両親にも認めてもらって婚約した。
私は幸せの絶頂期を迎えた。出会いから、一年近く経ったクリスマスの夜、一条建設主催のパーテイが、麻布のプリンスホテルで行われた。私も坊城と一緒に出席したのだけれど、そこで私は、佐伯昭なる男を知った。気障な人、と言うのが、第一印象だったが、なにかしらが印象に残った。
父は、この男を「優秀な男だ。」と誉めていた。そのうち彼は、しばしば我が家に現れるようになり、あたかも家族の一員のように振る舞いはじめた。
ふたたび夏になった。黄金岬に会社の、といっても実質的には私たち一家で個人的に使っている、小さな別荘があった。
黄金岬は、夕日を浴びると黄土色の土が黄金のように見える西伊豆一番の景勝地として有名である。
例年のようにその別荘で、私たち家族は、一週間ほど過ごすことになった。佐伯がどうしてそのメンバーの中に入ったかはよく覚えていない。多分父が誘ったのだろう。
三日目の午後、その日は、少し波が荒かった。私は女性友達と波打ち際でばしゃばしゃやっていたが、坊城と佐伯は、ボートで沖に出ていった。
その佐伯から、電話が掛かってきた。
「大変です。坊城さんが高波に攫われたらしい。今、警察にいます。お嬢さんもとにかく来てくれませんか。」
黄金岬の展望台から眼下を見やると、右側に洞窟のある大きな黄金色の岩がある。佐伯の話では、その裏側にボートを係留し、沖にあるブイを目指して泳いでいた。
ところが気がついて後ろを振り返ると、坊城の姿が見えなくなっていた、あわてて戻り、ボートで、あたりを探したが、見つからなかったという。
どこか近くの浜に泳ぎ着いていればよいが・・・・。しかし私の願いは、三時間後に無惨に砕かれてしまった。水死体となった坊城が近くの浜で発見されたのである。水にふやけ、蒼白になった坊城の死に顔を見て、私は言葉も出なかった。
「高波に襲われたか、あるいは足でも突然つったか・・・・。」
地元の人はそう言ったが、真偽のほどは不明だった。
佐伯は「僕が一緒にいながら・・・・。」と嘆き、私たちに泣いて謝った。
坊城は、地元で荼毘にふされた。佐伯は、葬式の手伝いを身を粉にしてやってくれた。
ドタバタが終わり、しばらくするとお坊さんが言っていた通り、さびしさが、体の奥からふつふつと沸き上がってきた。もう泣いてもわめいても、あの人は、帰ってこない。
そんな私をあの佐伯は、やさしくつつんでくれた。彼を気障に感じなくなった。
秋も深まったある日、私と佐伯は、私の部屋で、アルバムを見ながら、坊城の思い出話をしていた。気がつくと、佐伯の顔が近くにあり過ぎた。唇が覆われた。言葉はいらなかった。
新しい恋は、どんどん成長していった。
そんな私を見て、母は、あまりいい顔はしなかった。女の感で佐伯という男の危険性を気づいていたのかもしれない。
「あの人には、なんとなくおおらかさがないよ。勉強は出来るかも知れないが、長野の水飲み百姓のせがれじゃないか。」
しかし、父は、好ましい目でながめていた。
「男は仕事が出来ればいいのさ。あの頭の回転の良さはどうだ。我が社じゃ、あいつは断然トップを走っている。ゆくゆくは、わしの後を次ぐことになるのかも知れない。お前にふさわしい相手だよ。」
我が家のなかで、急に佐伯の存在が大きくなった。
人間は不思議な物だ。一度佐伯と関係すると、あれほど好きだった私の坊城に対する思いは、砂浜に描いた絵の様に、あっさりと消えていってしまった。
私は思った。結局運命、人生は元気に今を生きている人の為にある。どんな理由があろうと死んでしまえば何も残らない!。
私は事件から完全に立ち直り、大学を卒業してまもなく、佐伯と結婚した。
佐伯の実家からは、母親と兄二人が列席した。いずれも地元で農業をしているのだそうだ。父親は、佐伯が中学生の時になくなったとのこと。眼鏡をかけた小柄な母親のいやに卑屈でずるそうな態度が、私は好きになれなかった。

三 サラリーマンの目的


佐伯昭の手記(二)
今年もまた桜の花が美しい四月になった。
一条建設にも、希望に胸膨らませた新入社員たちが入ってきた。
今頃、彼らは、ありがたくもない社長の訓示に耳をかたむけ、神妙な顔をして、体をかたくし、辞令などを受け取っているのだろう。
一体この中の何人が、サラリーマンとして成功をおさめ、当初の夢を実現できるのだろうか。
一つ、私が信じる成功の秘訣を述べてみよう。
まず第一は、会社での自分の行動目的をはっきりさせることだ。
私の場合、目的は一条建設の社長になることである。副社長でも専務でもいけない。彼らにはまだ上がおり、目の前に人参をぶら下げられて走り続ける馬に過ぎない。
目的は、これだけでいい。残余の事は、考えないでいい。その代わりいつも考えていなければいけない。飯を食っているときも、寝ているときも、女房と喧嘩しているときも、秘書と社内情事にふけっている時も・・・・・。
第二は、目的をカモフラージュして行動する事だ。
人間の感情や思いは、君を合目的的に動かそうとしない事がある。ばかばかしいことだが、人間は正直でありさえすればいい、などと考えてみたり、愛だの恋だのという感情に流されてしまったりして、それにそって行動したくなったりする。
冗談ではない。
サラリーマンは、無数の敵に囲まれていると心得、つねに武装していなければならない。こんな風に「口開けてはらわた見せる石榴かな」では、あっという間に食われてしまう事は必定。
同僚は同じパイを奪い合う仲間。
上長は、君の知識や成果を収奪して己の評価の為に役立てようとしている輩。
目下の者は君の地位を虎視耽々とねらっているはげ鷹なのだ。
「和を以って貴しと為す」は、聖徳太子の言葉だそうだが、これはサラリーマン社会では、単なるお題目。
サラリーマンたるもの、愚かしい感情を押し隠し、仮面をつけ、その場にふさわしい演技を常にして見せなければいけない。
時には黒いと思っても白い、白いと思っても黒いといいくるめ、法律よりも社内基準を優先させ、「自分はこんなにも愛社精神に満ちあふれている。」と周囲に思わせる事が肝要だ。
上手に自分をカモフラージュすると同時に、常に第一の目的を再確認し、次に己の現在置かれている立場を知らなければならない。そして、目的に到達する為の最適かつ最短な方法をとるようにしなければいけない。
私が、令嬢俊子を得たのも、ちょっとばかりこの線に沿って行動したにすぎない。しかし、その結果、社内では一目も二目もおかれる存在になったではないか。
今や、私の最終目的を阻害すると考えられる対抗馬は、一条家の連中をおいてない。
まず兄の一郎は、保守的でぼんくらのくせに親父に受けが良い。そのまま行けば、こいつが一条家を次ぐのだろう。私は、当面はこの兄にはしっぽを振らなければなるまい。仮面をつけて卑屈にふるまい、チャンスの到来を待たねばなるまい。
弟の次郎は、兄に輪をかけてぼんくらだ。こいつは文学なんかにうつつを抜かしていやがる。私は、あいつをたきつけて、そちらに専心させることにしよう。これで競争者が一人減るというものだ。
もちろん、一条家ゆかりの者以外の連中を軽視してよいという訳ではない。あくまで礼儀正しく、いんぎんに対応しなければならない。
しかし同時に彼らに、私が、将来彼らの上に立つ可能性が大きい事を教え込まねばならない。彼らに、私を畏怖させ、担がせるようにしなければならない。
さて第三は、何が何でも目的を達成するという根性であり、ねばりだ。
係長から課長になり、課長から部長になり、さらに上に行くには、会社で認められる手柄を立てねばならぬ。ところで個人の功績は、一大発明でもしない限り、知れている。
知れているとすれば、自分の小さな功績は、針小棒大に見せ、他人の功績は、あたかも自分の功績のごとく見せる事が重要だ。そして自分のものにしえない他人の功績は、それとなくたたかなければいけない。
「力を合わせてやる。」というのは、自分が功績を分捕った相手、自分が陥れた相手に対するせめてもの罪滅ぼしに言う言葉だ。そしてそのために、私の現在の社長の娘婿という立場を利用するのだ。
私が成功したやり方を具体的に話してみよう。
私は、常日頃、設計事務所を通じてコンタクトを取り続けることで、一部上場のあの有名なT水産に取り入ることに成功した。ふとした偶然で先方の社長と知り合う機会を得て、可愛がられるようになった。
ある時、社長が「折り入って・・・。」と個人的悩みを私に打ち明けてくれた。なんとそれは「妻が浮気しているらしい、本当のことを知りたい。」と言うのだ。
私は、エステクラブに行くはずの奥さんの跡をつけ、浮気の現場を押さえて差し上げた。そのうちにそのプライベートな話を、なかば強請の種に変える事にさえ成功した。
こうなってしまえばこちらのもの、T水産は首都圏にオフィスビルをこれからどんどん建てるらしいが、言わず語らずの内に全部いただきだ。
私は、こう言ったいくつかの自分自身の成功を背景に能力を喧伝し、自分の課で頭角を表した。
ある程度の地位になると、仲間に「私と協力して行くと得になる。」と信じ込ませ、次第に信奉者を増やして行った。
そして将来の出世をちらつかせながら、建設部門を掌握した。その過程で、他人の手柄を自分と共同のもの、あるいは自分のものに変えるルートを次第に確立していった。
これからはその力を背景に、兄の一郎の土木部門を、一本釣りで壊滅させるように工夫しなければならない。

ところで君は、目的達成の手段として、最後の切り札を知っているだろうか。それは競争相手の抹殺、つまり殺人だ。五人の部長候補がいて君は三番目だ。部長は一人だから君はなれない。しかし、ここで二人いなくなったら、どうだろう。
そこで、これについて一言。
殺人を行うにあたり、君が認識しなければいけないのは、それが、とてつもなくハイリスク・ハイリターンな賭けである、という事だ。有効な殺人を選べば、取り分は、とてつもなく大きくする事が出来る。ただし、一度負けてしまえばそれでおしまい。
君よ、犯す勇気があれば、チャレンジするがいい。ただし度胸を据え、遺漏のない計画を立て、絶対に成功するという自信を持ってやりたまえ。
成功させるための私の哲学を一つ。
犯罪の摘発は、警察が犯罪であるとして認識し、捜査し、証拠を固め、被疑者を逮捕拘引し、起訴し、有罪判決を得て終わる。そしてその各段階毎に終わる事のできないものが、記録から抹消される。
捜査されても、証拠を残さなければ、犯人は悠々としていられる。犯人と分かってしまっても、逮捕されなければそれで構わない。証拠があって、逮捕されても、お目こぼしをしてくれて警察が立件しなければ、犯罪人になることはない等々である。
政治家はこの辺を一番良く知っているから、最後まで「知らぬ、存ぜぬ。」で押し通そうとするのだ。
しかし犯罪者にとって一番安全かつ有効なのは、警察が、君のやった事を犯罪であると認識せず、捜査をしない事である。
たとえば殺したとしても、死体が発見されなければ、大抵は行方不明で終わるであろう。自殺、事故等と認識すれば司法解剖もせずに、沙汰やみになってしまうのだろう。
私が常日頃ねらうのは、こういう犯罪だ。
坊城忠彦・・・・あいつは、おそらくどうしてそう言うことになったのか、合点が行かなかったに違いない。
坊城は水泳は得意らしかった。そこで私を「遠泳を教えてやる。」と己の能力をわきまえもせず、誘ったのだ。その私が、突如として波間から消え、足にくらいついたのだから、びっくりしたにちがいない。
悪いけれど、私は、学生時代水泳部に属していた位だから、泳ぎは彼以上に得意だった。
もちろん事件の後、警察に事情聴取は受けたけれど、おざなりのものだった。何しろ殺人の証拠など、影も形もないのだから、彼らの負けははっきりしていていた。
時々、夢の中にあいつの溺れる姿が、浮かばないでもないが、時が過ぎれば忘れるに違いない。良心の呵責など、あれは弱者の泣き言・・・・・。

四 猫事件


佐伯(一条)俊子の手記(二)
私は、学生時代、結婚というものをかなり楽天的に考えていた。
何かの理由で、男と女が絶海の孤島に漂着したとしよう。いろいろあるのだろうが、いつのまにか二人は協力し合うようになり、関係し、子供ができ、しあわせに暮らす事になるのじゃないか、夫婦も同じようなものだ。
坊城が死に、佐伯が現れたとき、気障ではあったが、私はその格好良さに魅了された。澄んだ相手の心を見とおすような目、真一文字にしまった口元、きちんと手入れされた髪が発するリキッドの匂い、そり上げた髭、隙のない服装、きちんとした物腰。きっと私を英国紳士のようにやさしく、礼儀正しく扱ってくれるに違いない・・・・。
しかし婚約し、結納も交わし、結婚式がだんだん近くなってくるにつれ、佐伯は、私が従来夫として漠然と頭に描いていたイメージと、大分違うように感じはじめた。
坊城と私の場合、新婚旅行や結婚式は、二人のものであった。佐伯と私の場合、それらに金を出すのは、父の懐であったが、内容は彼のものだった。
披露宴には会社関係者が多く呼ばれ、私の年来の友達は呼ばれないか、隅の方に追いやられた。見も知らぬお偉方の、内容のないスピーチが延々と続いた。
新婚旅行は、ハワイに行った。近頃では南の聞いたことのない島やリゾートに行くカップルが多いようだ。しかし、そのころは海外旅行人口が少なかったから、それでもうらやましがられたものだ。
夫はワイキキの免税店で、山のように高級ウイスキーを買い込んだ。
「どうしてそんなに買うの。三本以上は、税金を取られるんでしょう。」
「うん、しかし一条建設社長令嬢の結婚ともなれば、お役人も、お得意様も皆関心を持っているはずだ。僕らを売り込むにはちょうど良い時期だ。それに買ったウイスキーの代金は会社の経費で落とすから構わないじゃないか。」
新婚旅行と商売をごっちゃにしたようなやり方に、私は嫌悪を覚えた。
「ねえ、私にスカーフでも買ってくれない。」
「ああ、良いとも・・・。どこに行こうか。」
と夫は気楽に答えたが、いざ、お店に行くと
「同じ布きれなら、安いので良いじゃないか。」
と、聞いたことのないメーカーの物を選んだ。私が期待していたエルメスの製品など、はなから候補からはずされてしまった。
夜は、熱心だったが、いきなり彼の欲望で始まり、終わるとさっさと彼は寝入ってしまった。私が気分が昂揚するころ、彼はいつも横でいびきをかいていた。
新居は、父が、中央線の武蔵小金井駅近くに、将来の事も考え、少し広めのどっしりとした和風の二階家を建ててくれた。
そこで、私と彼とそれから私が実家から連れてきた猫のたまの生活が、始まった。
夫は猫はきらいだったようだ。だから新居に連れてくる事に反対したが、母が口添えしてくれた。昼間一人でほっておかれる私としては、語り掛けるべき友が欲しかった。たまは長いしっぽをつけ、トラ模様の小柄なかわいい猫だった。
生活は、すべて夫中心だった。渡してくれるものは驚くほど少なく、しかも彼は、私に家計簿をつけることを要求した。拒否すれば途端にむくれるのだから仕方がない。しかし記録は、夫の私攻撃の絶好の材料となった。
優しい言葉をかけてくれることは無かった。夫の発言は常に要求と文句だった。
「あそこにお歳暮を届けておいてくれ。」
「なぜ、昨日はおれが帰った時に、君はいなかったんだ。」
私はしばしば里に電話したり、訪問したりして、うっぷんを晴らすことにした。これだけはさすがに文句は言わなかった。
子供は「今は大変だから・・・・。」と当面作る気はないようだった。確かに子供は金がかかり、厄介な物には違いない、それなら作らない方が良い、という考え方も、無いことは無いのだろうけれども・・・・・。
しかしそれならせめて夫婦で楽しむ事くらい考えてくれたって良いと思うのに・・・というのが実感だった。釣った魚に餌はやらない、という主義なのだろうか。
結婚して半年も経つと、夫は仕事と称し、毎日帰りが遅くなり、外泊してくることが多くなった。酒も好きだった。
もともと仕事好きだったから、仕方のない話なのかもしれない。しかし、たまの休みにすら、何かと理由をつけて家からいなくなった。
私は、たまとお留守番の生活を強いられた。夫は、結婚前は私を三日とおかず求めたが、ひどく淡泊になり、回数も激減した。
そうなると私は、佐伯との結婚を少し冷静な立場で眺めるようになった。私は、坊城が死んでさびしかった。その穴埋めとして佐伯を求めた。
一方佐伯は、立身出世のために私を求めたのではなかったのだろうか。そのために結婚生活に一番大切な愛が存在していなかったのではないかと・・・・。
結婚して二年位たったある春の日、私が夫に決定的に不信感を募らせる事件が起きた。
たまが座布団の上にうんちをし、朝、寝ぼけた夫が、それを踏んづけてしまったのだ。夫は、烈火のごとく怒り、たまを探したが、どこを探しても見当たらなかった。
それから、一ヶ月くらいたっただろうか。私は、植え込みの奥でたまの死体を発見した。たまは、ピンク色のリボンを首に巻いていたのだけれど、それが深く食い込んでいた。夫に言うと「近所の子供がやったんだろう。」とそ知らぬふり。
普段が普段だから、私には夫がとぼけているとしか思えなかった。
しかし「あなたがやったんじゃないの!」と追求すると、いきなり横っ面をなぐられた。
私は成長してから人に殴られたことなど無かったから、これは大変なショックだった。私が泣くと、夫は横をぷいと向き、出ていってしまった。しかたなく私は父に泣きついた。
二日後、父に呼ばれて成城の実家に行くと、佐伯が来ていた。
「これから猫を飼う事はやめにしなさい。まだ結婚してろくに経っているわけじゃない。仲良くやりなさい。」
そんな通り一片なことを父は繰り返して述べたてた。その時の佐伯の腰の低さは、後々まで私の印象に残った。
「本当に申し訳ない事をしました。私もつい「あなたが殺したんだろう。」等と言われて大人気ない言葉を吐いてしまいました。すいません。俊子が殴ったと申しましたか。とんでもない事です。確かに手はふれたのかもしれません。でも決して大事なお嬢様を殴ったりしてはいません。ええ、これから大事にさせていただきます。」
母は後で二人になったとき、私に言った。
「いつでも良いんだよ。お前が、亭主が嫌になったら、戻っておいで。居場所は空けておいてあげるからね。」
両親の前はそれで収まっても、いったん芽生えたお互いの不信の芽は除きようがなかった。私は、次第に夫に恐怖を感じ始め、同時に軽蔑し始めた。口を利く事がいやになった。こちらがこちらなら、向こうも向こう。夫が外泊する数がますます増えてきた。
夫婦生活というのは、外からはうかがい知れない。人前でべたべたしている夫婦が、実は犬猿の仲だったり、あるいはその反対だったりする。
分からぬ理由は、一つには各人がそれぞれに内と外を区別して、演技するからである。私たちも、お互いを取り繕う演技だけは、人に負けなかったから、世間的には結構な夫婦に見えたかも知れない。しかし精神的には、結婚して二年かそこらで、完全に離れ離れになっていたのだ。
もっとも、現実には子供の事や世間体を考えて、離婚するにはいたっていない夫婦が案外多い、という話を聞く。それを考えれば、別に代わった夫婦と言うわけでもないのだろうけれど・・・・。
猫事件の翌年、夫は大阪支店に勤務になった。私はもうついてゆく気がしなかった。これが私と夫の長い別居生活の始まりになった。夫は、さらにその一年後、そこで課長になり、順調に出世街道を歩み始めた。
夫は、一応週末にはちゃんと帰ってきたが、何も起らなかった。食って、寝て、テレビを見てそれでおしまい。子などできようもない。
もっとも私は意外に不便は感じなくなった。
大学時代の友人との付き合いも多かったし、会社の人もしばしば我が家にやってきた。その上、近くにある社交ダンスクラブやテニスクラブに入会したから、時間潰しに事欠きはしなかった。一人で過ごす術を覚えたのである。
母は「いつ戻ってきても良いわよ。」を相変わらず繰り返した。しかし正直を言うと、実家も面倒くさくなった。気楽な生活になれると、年寄りばかりの抹香臭い世界などいや!
夫は、三十四で早くも部長の座を射止めたが、なんとハワイ支店に転勤になった。この時はさすがに母が言ったものだ。
「おまえ、本当にあちらに行かなくていいのかい。あんなところに婿さんを一人で放り出すなんて気が知れないよ。そうでなくてもお父さんの話じゃ、おまえの婿さんは、相当な漁色家らしいよ。」
しかし私は、一緒に行く気になれなかった。何より、夫が大阪支店に赴任して以来続いた五年間のこの気楽な別居生活を、今更に失う気にはなれなかった。

五 社長の座

昭と俊子が結婚してから、二十年近くのの歳月が流れた。昭和天皇が崩御し、年号が平成に変わった。
かっては建て売り住宅とわずかな市の仕事に依存し、年商百億前後だった一条建設は、今では年商二千億の大企業になっていた。あいかわらず民需中心の建設部門と官公需中心の土木部門が営業の両輪だったが、最近海外事業部を設立し、ハワイのリゾート地開発などにも積極的に進出していた。
二部ながら株式市場に上場され、ゼネコンとして鹿沢建設、大村建設など大手には及ぶべくもないが、中堅ないし準大手としての地位を築きあげていた。
三年前に七十歳で社長の一条大介が引退し、会長になった。持病の糖尿病が悪化したためである。新社長に長男の一郎が就任した。大介は、じっくりと息子の成長を、後ろから見届けようというハラの様だ。
昭と俊子夫婦は、冷たい関係を保ったまま、どうにか夫婦関係を維持していた。子は相変わらず出来なかった。
昭は、あの猫の話で、里に呼ばれて以来、さすがに俊子に直接手を出すような事はなくなった。しかし家に戻ることも少ないし、戻れば嫌みの一つも言い、自分の殻に閉じこもったまま、でようとしない。そんな昭に関する情報は、俊子の不満という形で、逐一里に筒抜けになった。それをまた昭が熟知していたから、昭の俊子に対する態度はますます腫れ物に触るようになった。
俊子に満たされない分、昭は、あちらこちらの女に手を出した。北新地のバーのホステス、曾根崎の韓国クラブの女、旅先で知り合った女、それから韓国のソウルにも女がいるとか・・・。
ところが最近彼が熱を入れているのは社内の女、経理部にいる定岡和子という女性である。しかもこの話は、社内では公然の秘密になっているとの事だ。
昭の出世は、トントン拍子だった。とにかく頭が切れると評判で、その上一条大介に気に入られていることが強みだった。廻りの者は、上も下もほおっておかなかった。課長の時も、部長の時も、その地位以上にちやほやされた。
現在では並み居る役員連中を押さえて、早くも副社長の地位にあった。併せて海外事業部長を兼務しており、実質的には一条建設ナンバー二である。
しかし世評の噂では、大介が引退してその雲行きが少し変わってきたようだ。慎重派の一郎と積極派の昭の間は、必ずしもうまく行っていないらしい。

「オーストラリア・ゴールドコーストA地区は、総投資額三百四十億、年間収益三十億、投下資本は約十五年で回収される事になります。日本は、これから急速に老齢化が進みます。そして多くの豊かな老人たちが、第二の人生を海外で過ごそうと考えるようになるでしょう。この投資は、投資回収性という観点から百点のものとは言えませんが、世界の一条建設をめざす我が社とすれば、是非とも必要なものです。」
経理担当重役の谷が、おずおずと言った。
「しかし、副社長、我が社の経営状況も考えてください。今期は、例年通り二割配当をする為に必要な経常利益二百五十億の確保すらも難しいのですよ。」
佐伯は、谷を無視して正面の会長を向き説明する。
「しかしですよ。日本の建設業全体のパイを考えて下さい。官公需は、これから減る傾向すらあれ、増える事はないでしょう。民間需要も一時のマンションブームが去り、停滞気味でしょう。それだったら、一条建設が二十一世紀に向けてはばたく為には、世界しかないじゃないですか。」
ぶつぶつと谷。
「会社は右肩上がりで伸び続けなければならない、というものでもないでしょう。安定した経営が、一番大切です。第一、その計画に必要なカネは、どうするんです。」
馬鹿にしたように谷をにらみ、佐伯は乱暴に言う。
「この前も議論があったように、社債を発行すればいいじゃないですか。そうすれば、そのうちそれは株式に組み入れられますからね。そう言う事をするのが、あなたの仕事じゃないんですか。」
しつこく谷が食い下がる。歳取って取締役になったから、その分、頑固である。
「株価が下がったら、どうするんです。転換しないで、金で償還を求められたらどうするんです。一時にどっと返さなけりゃ、ならないんですよ」
そんなことは分かっているという風に佐伯。
「現在の株価から見てそんなことはおこり得ないと思いますよ。万が一、償還を求められて、金がなかったら、銀行から借りればいいでしょう。」
会長が、谷の援護をする。
「ゴールドコーストも好いけれど、君が提唱して始めたハワイのカウアイ島の方は、どうなんだね。君は僕に年間収益十億とか言っていたけれど、いまだに半分も行っていないのじゃないか。」
会長に言われて、佐伯は、急に態度を変えて、ゆっくりと弁解するようにしゃべり出す。
「あれは、前回もご報告しましたとおり、取得した土地のインフラ整備に資金が予想外にかかったり、地元の反対が起ったり、あるいは販売がうまくゆかなかったり、トラブルがいろいろありまして・・・・。しかし、ご安心下さい。もう二年もすれば、当初の予想通り行くことは間違い有りません。」
さすがに会長が、強く言った。
「言い訳はいいよ。二年で元に戻るなんて、どこからでた考えなんだ。」
社長が尻馬に乗り、佐伯を攻撃する。
「私はあの地区は、もう撤退を考える時期じゃないかと思っていますよ。」
佐伯の顔がさっと赤くなった。怒っている。
「何ですって・・・・・。」
あわてて会長が取りなした。
「まあ、まあ、確かに佐伯君の言うように、一条建設としては、今こそ国際化のチャンスかもしれない。そのためには少々の無理をしても投資すべきかも知れない。A地区の開発計画は一応ペンデイングと言うことにして、もう少し考えよう。この次までに少し資料をそろえてくれないか・・・・。」
一応、その場は収まったのだが・・・・。

東都株式新聞X月X日報道
一条建設、一割五分に減配か。
一条建設の今期経常利益は、当初予想を大幅に下回る百二十億程度に落ち込む見通し。「カウアイ島のリゾート計画が、地元のつけた厳しい建築条件のために、設備費用が当初の六倍もかかる事になり、販売区画数も大幅に減少させざるを得なくなった為。」と会社では説明している。一部には海外のリゾート計画からの撤退、担当した佐伯副社長の更迭も噂されている。

赤坂のホテルで、佐伯と定岡和子の会話。
「どうしたものかねえ。このままじゃ、本当に更迭されかねない。」
「あなたは昔はどうしたの。いつも先制攻撃で難局を切り開いて来たんでしょう。」
「若さがなくなったかな。」
「しっかりしてよ。このまま黙ってクビになることはないじゃない。それに私、道原さんからすごい事を聞いたわよ。」
「何だい?道原って、社長の秘書の道原か?」
「ええ、そうよ。カウアイ島撤退は、社長が、社内で有力な対抗馬であるあなたを、この際切り捨てて、不動の地位を確立したいと言うことらしいわ。」
「まさか。道原ごときに社長がそんなことを言う訳がない」
「あら、副社長さん、ご存知ないの。道原さん、社長とは浅くない縁らしいのよ。」
「なるほどね。」

佐伯昭の手記(三の一)
あの、ぼんくら社長め、一体、何を考えているのだろう。
ハワイやオーストラリアでの海外活動で私に責任をとらせ、追い出すだと・・・・。何十年もあのうるさい親父と会社に仕え、気に入らぬ社長の妹も我慢せずに使ってやったこの私を、紙屑のように、切って捨てようと言うのか。
考えて見れば、まずい時に親父がやめてしまったものだ。もう少し後だったら、親父をたらしこみ、社内工作を万全にして、あいつをこちらから合法的に追い出したものを・・・・・。
くそっ。大体、あの馬面を見ただけでもへどが出る。
こうなったら、いっそのことあのぼんくらを、何か物理的手段を使ってでも、取り除けないだろうか。警察が犯罪として立件する可能性のない事故か自殺に見えるスマートな方法・・・・・。
しかし問題は、ぼんくらと私は、あまりにも接近しすぎていることだ。ぼんくらの消え方がちょっとでもおかしければ、私に疑いがかかるのは必定。
泳ぎに連れて行くわけには行かない、森の用水池もない、病人で寝たきりでもない、交通事故だっていつも運転手付きの車で移動するのだから難しい。
さんざん考えた末、馬鹿みたいに簡単な方法を取る事にした。
アイラ・レヴィンの「死の接吻」という名著を読んだ事があるだろうか。用のなくなった女を逢い引きと見せかけ、ビルの屋上の通風口に誘う。腰を下ろし、接吻しながら、相手の足を持ち上げる、あっと言う間に、女は転落即死・・・・。

秘書・道原恵子の供述
「社長にお約束がある。」という事で、副社長がお見えになりました。いつもの事ですから、黙ってお通ししました。ちょうど、その時、社長の経歴等に関する問い合わせの電話が、かかってまいりました。経理部の定岡さんからです。
お話しているうちに、うしろから「失礼します。」という副社長の大きな声が聞こえ、ドアの開く音がしました。それからものの一分とたたない内に、副社長が、青い顔をされて、部屋から出てまいられました。
そして「大変だ、社長が窓から飛び降りた。」と私にむかって、叫ばれました。あわてて私は、定岡さんの電話を切って、副社長の指示を待ちました。

一条社長の遺書
「疲れました。所詮、私には、大会社の経営をつかさどる能力はなかったようです。後のことは佐伯君にお任せします。お父さん、お母さん、家族の者たち、それから一条建設の皆さん、先立つ不孝をお許し下さい。」

佐伯昭の手記(三の二)
一条建設の社長室は、一条ビルの最上階つまり十二階にある。入口に、秘書の道原恵子という美人が、座っている。私は、社長に呼ばれたと彼女に断り、奥の社長室に向かった。
ちらりと後ろを振り返る。道原は、いつものことなので向こうを向いたままである。
道原の席の電話が鳴った。定岡和子が電話をかけ、少しの間、彼女を釘付けにして置いてもらう、と言うのが作戦だ。
ドアをこつこつとたたく。道原との距離は十メートルはあろうから、この音は気づくまい。どうぞ、と言う声で私は、そっとぼんくらの部屋に入った。さあ、勝負だ。早る心を何とかして落ち着かせる。
「今日は何ですか。」
「いや、ゴールドコースト・プロジェクトの事で、ちょっとご相談に・・・・。それにしてもうっとうしい天気ですな。」
と私は、窓際により、様子を伺う。
「そうだな。」
一条は、煙草でもとろうとしたのか、自分の机に方に向いた。
今だ!私は、いきなり後ろから襲い掛かり、クロロフォルムを染み込ませたガーゼを口に当てた。絶対に、声をたてさせてはいけない。不意をつかれて、ぼんくらは少し暴れたが、やがてぐったりとなった。窓を開け、ぼんくらをごみでもすてるみたいに突き落とした。
それから、そっと外に出た。今度は背を向けている受け付けの道原に聞こえるように、「失礼します。」と大きな声で言い、ドアをガタンと言わせ、部屋の中にふたたび入った。
私は、大急ぎで用意したフロッピーを机の上のパソコンにいれ、印刷キーを押した。散らかった応接机のまわりを整えた。
ふたたび、外に出て、道原に向けて「大変だ、社長が窓から飛び降りた。」と叫んだ。道原は、一瞬キョトンとした顔をした。
私は、あわてて道原の電話をひったくるようにして取り上げ、秘書室長を呼び、一緒に社長の落ちた現場に駆けつけた。もう二、三人が社長を取り囲んでいた。
頭蓋が割れ、赤い血が流れ、脳症が飛び出していた。即死は明らかだった。後は予想したとおりの大騒ぎが待っていた。
警察は、私が突き落とした可能性についても、考えないではなかったようだ。しかし、私の誠意に満ちた証言を覆す事はできるはずはない。
「最初ノックしたとき、「待って呉れ」と中から声が聞こえましたので、廊下で待っておりました。突然中から叫び声が聞こえたので、おかしいと感じ、「失礼します!」と声をかけ、部屋の中に入りました。
窓があいており、社長がおりませんでした。下を見ると、コンクリートのたたきに社長らしい人影が倒れておるようでした。机の上の遺書を発見し、私は、大変なことになった、と思った次第です。」
パソコンが打ち出していたもっともらしい遺書が利いたようだ。

六 秘書の失踪


一条社長の社葬が、故人がキリスト教徒だったことに鑑み、信濃町にある教会でしめやかに、かつおごそかに取り行われた。四十九歳、若すぎる死が惜しまれた。多くの政財界人が、葬儀に訪れた。参列者達は「なぜこの時期に自殺などしたのだろう。」と一様にいぶかった。
歳老いた両親が、力を落としたように見え、登喜子夫人とまだ学生の子供達が、参列者の涙を誘った。
その中で細かい事に気を配り、誰にも愛想よく、こまねずみのように動き回っている男がいた。佐伯昭である。
それは見方によっては、一条一郎の後継者が彼である事が既定路線である事を、誇示しているかのようであった。

ところが、葬儀が終わるとすぐ問題となる事件が起きた。
一条一郎の秘書だった道原恵子が、失踪してしまったのだ。
彼女は、町田のアパートに両親と暮らしており、貿易会社に勤める桜井一夫という恋人がいた。土曜日の午後、彼とデートをすると家を出かけ、小田急線で新宿方面に向かったまま行方不明になってしまった。
両親が娘が戻ってこないので、翌日桜井一夫に電話をしたところ、彼は「恵子さんとは、昨日は会わなかった。デートの約束もしていなかった。」と言い、大騒ぎになった。
もちろん、この事件を佐伯昭と短絡的に結びつけるわけには行かない。その日、佐伯は、関係業者と厚木でゴルフをやっていた。警察もプレーをした仲間に確認した話だから、疑いようは無い。
しかし、警察が、一条一郎の死について若干の疑問を持ち、聴取を行おうとしていた矢先だったから、佐伯昭にとっては、タイミングの好い失踪であった。

佐伯俊子は、花の時代が過ぎたが、ますます元気だった。夫が相手をしてくれない、と言うことは、このころになるとむしろありがたかった。女性仲間同士で、あちらこちらに遊びまくり、あまつさえ、秘書課にいるさる男性と親しくしている等という芳しからぬ噂をたてられても平然としていた。
兄の死は、彼女にとってはショックだった。しかしそのショックが去り、冷静になったとき、ふと妙なことに気がついた。
兄はなぜ、自殺する直前に夫を呼んだのだろうか。何かを話そうとしたのだろうか。それなら夫にそのことを告げてから、死んでも良かったのではないか。
夫と兄は、最近うまく行っていないと聞く。それなら、あてつけに自殺して見せたというのだろうか。それもわざと過ぎるようだ。清水にインクを一滴落としたかのように、疑問の輪が広がって行った。