ローマ人の物語]T「終わりの始まり」  塩野 七生

新潮文庫

五賢帝の最後を飾る人であり、哲人の呼び名も高く、今なお有名な「自省録」を残したマルクス・アウレリウス帝は、評判の高いローマ皇帝であった。子供の頃から歴史に名を残すような有名な家庭教師をつけられ帝王教育を受けた。
ハドリアヌスは、時期皇帝にきまっていたアエリウス・カエサルがなくなった後、138年、マルクスへのつなぎの意味も込めて、清廉で誠実で責任感の強いアントニヌス・ピウスを指名した後、他界した。彼は、平和な時代をすごし、ほとんど何もしなかった、といってよい。161年、ついにマルクスが若いルキウスと共同で帝位についた。

パルテイア王がアルメニアに進攻したことによって「パルテイア戦役」が始まったが、4年で掃討に成功した。しかし始めて防衛戦線が破られるなど、衰退への兆候が認められ始めた。戦局は結局パルテイアの弱体化を推し進めることとなった。
一方で国内問題も飢饉、洪水、ペスト、キリスト教問題など多事であった。
ルキウスが戦地で亡くなった後、蛮族が国境を越えて侵入してくるようになり、皇帝はドナウ防衛戦線行きを敢行することとなった。このダキアでの記録は、マルクス・アウレリウス円柱に「ゲルマニア戦記」として描かれている。173年にゲルマンのマルコマンニ、クワデイ族と講和が結ばれ、一時的に平和が戻った。175年にシリア総督カシウスが謀反を企てたが鎮圧された。179年頃から「第二次ゲルマン戦役」が始まり、皇帝も出陣することとなった。しかし180年、戦地でついに帰らぬ人となった。

五賢帝時代、皇帝が最適と考えた人物を養子に迎え、後継者に指名したものだが、マルクス帝には実子がいた。父と正反対で勉学に励まず、体育好きのコモドウスであった。父の後、皇位につき、第二次ゲルマニア戦役を講和に導いた。しかしローマに戻った後、その後11年間、統治者としてすべきことを何一つしなかった。192年コモドウスは暗殺された。愛妾、側近奴隷等によるものだが、動機はわかっていない。近衛長官レトーが差配をふるうようになった。正統な次の皇帝はおらず、乱世になった。下克上の時代には、結局実力のあるものが帝位につける。マルクス帝時代に実力をつけた辺境の5人の武将が、それぞれに皇位を宣言して争うこととなった。
最初に皇位についたペリテイナクスは、80日余りで暗殺される。次ぎにユリアヌスが、近衛兵たちを味方につけ、王位についたが、防衛線を守る軍団が承認しなかった。

ドナウ川防衛線を担当していたアフリカ出身のセヴェルスは、47歳で一番若い。皇帝になる宣言をしたのち、ブリタニアにわたり、同じ様に名乗りをあげたアルビヌスと和解する。その後ローマ進軍を始める。193年戦力の差を背景に、一戦も戦うことなく、首都入城に成功、公正な政治を約束し、アルビヌスとの共同皇帝就任を求め承認される。
エジプトを支配し、やはり皇帝宣言をしたニゲルを最終的にはイッソスの平原での戦いで倒した。アルビヌスも結局リヨン近くの平原でたたきつぶす。
197年、ライバルたちは完全に消え、セヴェルス時代を迎える。パルテイアの不穏な動きを察知し、出陣、202年に凱旋し、故郷に錦を飾る。しかし彼は、息子のカラカラを皇位継承者に指名して、元老院に冷水を浴びせた。
211年ブリタニア遠征中にヨークで息を65歳で引き取り、その後をカラカラが継ぐ。そしてそのわずか1年後、カラカラは不仲であった弟のゲタを切り殺した。

071022