新潮社
デイオクレテイアヌスは、283年に皇帝カルスがペルシア戦役中に落雷で死んだ後をうけて、40前後で皇帝となった。
3世紀末リメス(防衛線)の堅持は北だけではすまなくなっていた。またローマでは内部でも盗賊が横行した。リメス内部の人間の安全を確保することが第一と考えた。そのため就任してすぐにマクシミアヌスにガリア北アフリカ等の統治を任せ、いわゆる二頭制をとった。
それでも足らず293年には4頭制をとることにした。
いづれもローマ軍団でキャリアを積んだミリタリー。兵力は倍増され、軍事費は増加する一方、軍隊はローマ帝国の支柱となった。デイオクレテイアヌスは、統治には安定が不可欠と考え、「市民の仲の第一人者」よりも「市民からかけ離れたところで支配する者」になろうとしたようである。303年に凱旋式を行うまで首都ローマに戻らなかった。軍事的拠点たる首都はニコメデイアなど4市に及んだ。
ローマの元老院と市民は無視された形であった。ミリタリーとシビリアンの流動性は失われ、官僚大国が出現した。そして税金大国が出現した。国家は税制の許す範囲しか機能しない、から、必要な経費を税として徴収するに変わった。
303-304年にキリスト教徒弾圧をうちだす。ローマ帝国再建の仕上げの仕事ではなかったか。
305年にデイオクレテイアヌスは老齢を理由に退位する。彼の作った4頭制は維持されたが、306年にブリタニアで正帝コンスタンテイウス・クロルスが亡くなった。将兵の間にコンスタンテイヌスを正帝に推す動きが広まった。
コンスタンテイヌスは、百人隊長コンスタンテイウスと居酒屋へレナの間にうまれた男。四頭制がスタートし、父は正帝マクシミアヌスに協力して西方を押さえる副将に抜擢された。ただし妻へレナは離縁され、デイオクレテイアヌスの元、母とともに18歳から30歳までニコメデイアで過ごした。その後戻って軍務についていたことが幸いした。
正帝ガレリウスは、彼を副帝にすることで妥協が成立し、ひとまず4頭制維持。ほかにローマで支持の多いマクセンテイウス、前帝マクシミアヌスがおり、前者が元老院は皇帝におした。
6人のレースが始まる。まずセヴェレスがローマを目指して敗北、脱落。マクシミアヌスはコンスタンテイヌスを倒すクーデターを企て失敗。東方はガレリウスが死去してリキニウスが継ぐ。312年、コンサウタンテイヌスは、ミルヴィウスの決戦で勝利し、ローマのマクセンテイウスを倒す。ローマに凱旋し、元老院はあのパッチワークの凱旋門を贈る。313年、マクシミアヌス・ダイアはリキニウスとの争いに敗れ去ってゆく。
こうしてコンスタンテイヌスとリキニウスが勝ち残り、二分統治が行なわれる。一時的平和が保たれ、コンスタンテイヌスは北方蛮族撃退戦などに取り組む。
一方で313年、彼はリキニウスとともにミラノ勅令を発布。キリスト教徒の信仰の自由を保障したのは当然だが、コンスタンテイヌスの元では優先されてゆく。没収資産の国家による補償は、キリスト教徒に大きな利点であった。
さらにコンスタンテイヌスは、皇帝資産をキリスト教に寄付をした。これには余談がある。中世「コンスタンテイヌスの寄進状」なるものが唱えられ、ヨーロッパ全土は教会のものとの思想が唱えられた。しかし後に寄進状は10世紀に作られたまったくの偽者と判明した。さらに聖職者の公職免除などしたから、軍人、公務員等が利害からキリスト教に多数入信した。
324年に終にリキニウスとバルカンで戦端が開かれ、コンスタンテイヌスの勝利に終わる。彼は続いて帝国の首都をビザンチウムに移し、新都の建設に着工し始める。新都はローマ的なものは一切排除され、キリスト教一色であった。
325年、300人以上の司教が出席しニケーア公会議が開かれた。キリスト教内で、神とその子イエスは同位とし、三位一体説を唱えるアタナシウス派と、同位ではないとするアリウス派が対立していた。コンスタンテイヌスは、キリスト教会の統一を重視し、「三位一体説」に加担。
共同コミュニケの形で採択した。
コンスタンテイヌスのこのキリスト教傾倒ぶりについて著者は次のように分析している。
「従来の市民が国王を選び、王権を与えるやり方では、市民が認めなくなればすぐに権威は失われてしまう。キリスト教では、「人間」ではなく「神」が統治ないし支配の権利を君主に与える。実はこれは、17世紀に現れた王権神授説そのものなのだが・・・。これならば自分の王位を保証させ、意中の後継者に権威を与えることも出来る。」
337年、大軍を率いて小アジアに渡ったが、そこで病死する。60歳代前半。死の直前に洗礼を受けている。息子3人は21歳、20歳、18歳であった。
(091002)