コンスタンテイヌス帝死後、帝国を5人で分けることになった。長男、次男、三男、甥二人。しかしまず甥二人が、何者かに暗殺され、帝国を3人で分け合うことになった。340年、長兄コンスタンテイヌス2世が、領土の分配に不満を持ち、末弟コンスタンスの支配する北イタリアに攻め込んだが失敗、捕らえられるや直ちに殺された。コンスタンスは蛮族対策に悩まされているうちに、内政がおろそかになり、蛮族出身の将マグネンテイウス等に殺された。ペルシャ王シャプールと和平を結んで引き返した次男コンスタンテイウスは、ムルサの会戦でマグネンテイウスを下した。
コンスタンテイウスは、血縁者ガルスを一時用いたが、失敗、次に第二の血縁者ユリアヌスを副帝として用い、ガリアに送り込む。一方でコンスタンテイウスは、父の政策を引き継ぎ、親キリスト教路線を踏襲した。免税対象者の枠が広げられ、資産の私有が認められるようになった。またローマ伝来の神々にささげる祭儀、アテネやポセイドンの偶像崇拝が禁止された。そして神殿の閉鎖と破壊命令と転用許可がそれに続いた。
哲学の徒でもあったユリアヌスは、357年、数で勝るライン川上流のアレマンノ族にストラスブールの戦いで勝利し、族長クノマドルを捕虜にする。さらに中下流のフランク族にも勝利する。一方357年に凱旋式をあげたコンスタンテイウスだが、ペルシャで苦戦、ユリアヌスに軍団の東方派遣を命ずる。ユリアヌスはこれを拒否し「アウグストウス」に擁立される。両者決戦直前にコンスタンテイウスが、ユリアヌスを後継者に指名して死去。
ユリアヌスは、今までのキリスト教優遇策を廃止し、ギリシャ・ローマ宗教の再興を図る。また増税を拒否し、出費の無駄の解消と費用の節約、税の公正な徴収などに勤め、昔のローマを取り戻そうと試みた。しかし363年、ペルシャとの戦役の途中、襲撃にあい、負傷、死去する。皇帝の護衛隊長ヨヴィアヌスが皇帝に選ばれ、すぐに北部メソポタミヤをペルシャに譲渡して講和、ただちにアンテイオキアに入り、ユリアヌスの多くの政策を取り消す。このとき幸いなことにペルシャ側は強攻策にでなかった。ヨヴィアヌスは、コンスタンテイノープルに向かう途中死去、ゲルマン出身の将軍ヴァレンテイアヌスが皇帝に選ばれる。彼は弟のヴァレンスを共同皇帝に任命し、東方をまかせる。一方で親キリスト教、反異教路線を復活した。
蛮族中の蛮族フン族の動きが活発になった。これにおされてゴート族の一部がローマ帝国に恭順、ローマ軍に加わることを条件に帝国領内にドナウ下流で居住権を与えられた。しかし彼らは約束したように武器を捨てず掠奪を行うようになった。ハドリアノポリス(トルコ:エデイルネ)でゴート族と戦うも敗戦、ヴァレンス帝は妬き殺されてしまう。帝位が空席となった東方に、そのころ西方を担当していたグラテイアヌスは縁者のテオドシウスを呼び寄せ、王位につける。テオドシウス帝は、兵士を募集するなどして軍の増強に勤める。さらにゴート族を領内に住まわせるなどする。
374年、アンブロシウスは、三位一体派に担がれてミラノ司教となった。43歳。このときグラテイアヌス帝21歳で幼少時よりキリスト教に好意的であった。テオドシウス帝は、キリスト教徒ではなかったが、テッサロニケで病に係り、生死の境をさまよったときに洗礼を受けた。
380-395年は、背後にアンブロシウス、前面にグラテイアヌス帝、テオドシウス帝の形で、「異教」と「異端」に対する全面的な宣戦布告で始まった。アンブロシウスとシンマクスが論争するようなこともあったが大勢は覆らなかった。
「異端」には教えを説くこと、聴くこと、同志と語らうこと、場所を提供することなどが禁止され、確信犯には村八分が待っていた。「異教」には皇帝の「最高しんぎ官」就任拒否、財産没収などが行なわれた。オリンピア競技も中止になった。383年にグラテイアヌス帝が、ブリタニアで起きた反乱で殺され、テオドシウス帝の天下となった。
388年にテオドシウス帝は、41歳にして首都ローマを訪問し、元老院議場で「ローマ人の宗教としてユピテルをよしとするか、それともキリストをよしとするか。」とせまり、ついにキリスト教の国教化に成功する。これに力を得たミラノ司教は、さらに「皇帝権に対するキリスト教会の優位」をはっきりさせようと試みた。キリスト教徒がユダヤ教徒のシナゴーグを焼き払って罰そうとすれば厳重に抗議し、テッサロニケの暴動では軍による制圧が過度であったとし、テオドシウス帝を「公式に贖罪の意思を示さなければ神の祭壇に近づけぬ。」などとして脅した。後者では結局皇帝が妥協している。
395年、息子二人に帝国を二分して与えた後になくなった。
(091002)