新潮文庫
第一次ポエニ戦争後(前241)から、第3次ポエニ戦争後(前146)にかけて、ローマの資産分布等を見るとローマ社会に貧富の差が拡大した事が分かる。具体的には経済構造の変化が、自作農を中心とする中産階級を直撃したのである。ローマ市民は、直接税が廃されるなどで豊かになり金余り状態になった。経済活動が盛んになり騎士階級(経済階級)が台頭してきた。彼らによる大規模農園の支配が始まり、没落する自作農が出てくるようになった。これが紀元前2世紀後半のローマを襲った社会不安となって現れる。
前134年テイベリウス・グラックスは護民官に当選し、国有地借用の上限、借地権の他者への譲渡禁止などをさだめた「センブローニウス農地法」を提出した。無産者に農地を与え、自作農に復帰させ、社会不安をなくすことが目的だった。市民集会で元老院の後押しするオクタヴィウスを押し切って成立させた。しかしテイベリウスはフィデス神殿前で反対派に殺害された。この事件は、その後100年続く「ローマの内乱」の端緒となった。
しかしその後数年は、スペイン原住民の反乱鎮圧、シチリアの奴隷蜂起の鎮圧等によってローマはつかの間の安心と豊かさを享受した。
前124年、弟のガイウス・グラックスが護民官に当選すると兄の遺作である農地法の改革に鋭意取り組んだ。彼は貧しい人々に小麦を安値で売る「小麦法」、失業者対策を考えた「公共事業法」などを成立させた。さらにローマ市民権の拡充をねらった「市民権改革法」を成立させようとした。しかし元老院の反撃にあい、ついに追い詰められて自死してしまった。
ヌミデイアでミチブサ王の実子二人を倒し、ユグルタが権力を握った。ローマは制圧に成功せず、ついにユグルタ戦役(前112-105)が始まる。ローマは指揮官にメテルス、副将に平民出のマリウスを送った。メテルスと意見のあわなくなったマリウスは、ローマに戻り、執政官に立候補、当選し権力を握る。根っからの軍人の彼は、兵士たちの現状を知り尽くしていた。正規軍団の編成を従来の徴兵制から志願システムに変え、軍の編成を大幅に変えた。104年にユグルタ戦役を制し、前101年に北方から侵入してきたゲルマン人を破る。
マリウスは、政治的素養が欠如していた。志願兵は平時に彼らをどう処遇するかが問題。そこでこの問題をグラックス兄弟を信奉する護民官サトウルヌスが担当し、失業対策としてが新植民地建設などを画策するが、元老院の反対にあい暗殺される。
平穏な8年がすぎた後、前91年に護民官にドウルーススが選出された。しかしすべてのイタリア人に市民権を与えようとして暗殺された。この後ローマの同盟者であった諸族が反乱を起こし、一時は内乱状態になり89年まで続いた。この隙を計算にいれたかのように、小アジアポントスのミトリダテスがローマの属州を占領し始めた。
スッラは、マリウスのもとで総務や経理の仕事で名を上げた男である。しかし「スルピチウス法」をめぐって、マリウスと対立、これを追い出した執政官になった。前87年に後をキンナ等に託して、ミトリダテス征討にでかけた。そのすきにキントスが政権を奪取、スッラを解任、マリウスが軍勢と共に帰国、政権を奪取し、多くを処刑した。
しかしオリエントを制したスッラが、悠然と帰国。再び政権に戻り、独裁官に就任すると、民衆派を徹底的に弾圧すると共に、元老院体制を復活させようとした。しかしスッラは突然辞任。独裁官に座り続ける事が、突出した個人を認めない従来のやり方に反すると考えたからだろうか。スッラの後に、彼のもとにいたクラッススとポンペイウスが台頭してくる。前77年に民衆派のレピドウスが軍を集めるがつぶされる。ポンペイウスはセントリウス戦役、第二次ミトリダテス戦役、クラッススはスパルタカスの乱などで活躍する。
前70年にクラッススとポンペイウスが執政官に当選。さらにポンペイウスにより、前67年に海賊たちが、前63年にミトリダテス戦役が終了し、オリエントが完全に制圧され、地中海を巡る全地域がローマの覇権下になった。
やがて彼ら二人に、台頭してきたユリウス・カエサルが加わり、前60年三頭政治体制を築き、元老院システムに立ち向かう時代になってゆく。
041205