ローマ人の物語T「ローマは1日にしてならず」  塩野 七生

新潮文庫(1−3)

北のエトルリア人と南のギリシア人の中間あたりに、ロムルスがレムスを倒し、ローマを建国したのは紀元前753年である。二人はラテン語を話す民族出身だったらしい、としか分からぬ。
紀元前270年にローマが、エピロスの王ピュロスを擁するターラント市を苦戦の末に下し、さらに南イタリアのその他ギリシア諸都市も制圧してルビコン川以南のイタリア半島を統一。「ローマは1日にしてならず。」と言う諺はこの約500年をさす。
ロムルスは、ローマに王と元老院と市民集会でささえる体制を作った。2代目の王に選ばれたヌマはローマに秩序をもたらし、これに続いた王たちはそれを発展させた。ヌマはローマに征服されたサビーニ族の出身、このように征服した異民族まで同化するところにローマ発展の因があったのかも知れぬ。7代目の王タルクイニウスが失脚した後、ローマは共和制に移った。時に紀元前509年。
2人の執政官と元老院と市民集会が支えるようになったが、貴族と平民がしばしば対立するようになり、紀元前449年に貴族に有利な12表法が施行される一方、平民を守る護民官制度が発足した。徐々に力を得たローマは、近隣諸国とラテン同盟を結んだ。しかし390年のケルト族の来襲、ローマ占拠では同盟の結束が無力である事が判明した。復興したローマは、平民の協力を得るためリキニウス法を制定し、対外的にはラテン同盟を解散し、ローマを中心とするローマ連合を諸国と結んだ。一時勢力を得たアレキサンダー大王が、ローマを襲わなかったのは僥倖であった。
ローマは、再び力を取り戻し、徐々に近隣諸国を征服、山岳民族サムニウムとの抗争(紀元前326-290)に苦戦するが、これも最後に勝利を収める。アッピア街道などが張り巡らされ、ローマの軍事上の優位が次第に確立されてゆく。(すべての道はローマに通ず)
戦いに負けても将の責任をとらないこと、失敗した過去の経験を生かすこと、破った相手に対してきわめて寛容な処置をとることなどローマ軍の戦い方の特色であった。
そしてターラント戦。冒頭のようにピュロスとの戦いに苦しむが、ついに服従させ、イタリアを統一。すると今度はカルタゴが視野に入ってくる。
時代はさかのぼるが、エジプト文明に端を発したクレタ文明、ミケーネ文明は、やがてギリシア文明を開花させた。そのギリシアは、植民活動を経て紀元前8世紀頃からイタリアにも触手を伸ばし始めた。それがローマ文明の基となった。ローマは自国の政治システムを研究するために、紀元前453年にギリシアに視察団を派遣するなどして研究した。しかしローマは、決してアテネやスパルタとは同様の方法を取らなかった。
それにもかかわらず、ローマが興隆した原因、裏を返せばギリシアが衰退した原因について、著者は「ひとまずの結び」の中で、同時代を生きた3人のギリシア人の説を紹介し、そのどれもが当てはまるとしている。
デイオニッソスは、宗教についてのローマ人の考え方に求める。狂信的なところがなく他の民族とも対立関係よりも内包関係に進みやすかった。ポリビウスは、ローマ独自の政治システムに求めた。王政、貴族政、民主政というそれぞれが共同体の一部の利益を代表する政体に固執しなかった。それらの利点を執政官、元老院集会、市民集会によって活用し、国内の対立関係を解消し、挙国一致の体制を築くことに成功した。ブルタルコスは、敗者でさえも自分たちと同化するローマ人の行き方に求める。一方で滅びさっていったアテネやスパルタの場合,ギリシア人以外はすべてバルバロイ(蛮人)として峻別した。
この作品は、むやみに事実を羅列することなく、ローマがどうしてそのように発展したか、を読者と共に考えるようなスタイルで書かれている。初心者でも楽しむことができ、知らず知らずのうちに歴史を理解出来るところが非常にうれしい。

041205