ローマ人の物語U「ハンニバル戦記」  塩野 七生

新潮文庫(4−5)

それまで、膨張を続けるローマと、すでに強国となり海を支配していたカルタゴはほとんどぶつかることはなかった。しかし前265年シチリアの小国が、隣国の圧迫から逃れようと、ローマに頼ったことから、第一次ポエニ戦争が始まる。海では、圧倒的に多くの五段軍船を有するカルタゴ有利と考えられたが、ミラッツオ沖の戦いでカラスという奇妙な鍵を使ってローマ軍が勝利するなど、ローマ軍有利のうちに進んだ。23年経過し、前241年、結局カルタゴが、シチリアから全面撤退するなどの条件を飲んで和議が成立した。
カルタゴは敗れはしたが、独立自治国家であることに変わりはない。しかしサルデイーニャ、コルシカを失うなど退潮は覆いがたい。そんな中、ハミルカル率いる軍団が、スペインを次第に支配し、カルタゴに銀など多くの資源をもたらすようになる。一方でローマはイリリアやガリアを支配し、ますます強大になる。
前218年ハミルカルの息子ハンニバルが、スペインから大群を率いて有名なアルプス越えを敢行する。この作品の面白いところは、歴史のなぜを追及しているとところだ。著者はハンニバルがなぜアルプス越えをしたかを考察しているが、詳細は本文に譲る。
ポー川流域の穀倉地帯テイチアーノで第二次ポエニ戦争の幕が切って落とされた。馬は、当時鐙にないものが一般的で、馬が得意のヌミデイア騎兵の力が強くハンニバルの圧勝。
トレッピアでは12月末寒気の中をカルタゴ軍が、ローマ軍を取り囲み殲滅させた。トラジメーノの戦いでは、ハンニバルの進路が予測がつかず、2軍にわけたローマ軍の半分が、縦列になったところを、湖を背景に三方から攻撃されるといういわばだまし討ちにあいほとんど全滅した。仕上げは、前216年のカンネの戦い。時間と共に両翼がヌミデイア騎兵などに破られ、包囲され、ローマ軍は完敗した。しかしハンニバルによる講和提案は、ローマの元老院によって拒絶された。
ハンニバルは、そのままローマを突くと恐れられたが、軍を南イタリアに転じた。なぜつかなかったか、現場の側近も考えたし、後世の歴史家も首をひねった問題である。著者によれば、ローマの力をそぐにはローマ連合諸国を切り崩す事が先、と考えたようだ。以後ハンニバルは、南イタリアで長い戦闘を繰り返すことになる。
ローマは、ハンニバル一人が強いのだと知ると会戦に訴えず、彼のいないカルタゴ軍のみと戦う持久戦法を取った。マルケルスなどの活躍で、アルキメデスの知恵を持つ、シラクサを倒し、ターラントを再復し、南部沿岸都市を取り返した。また前209年、スキピオが、ハンニバルの出身地カルタヘーナの攻略に成功する。前210年頃を境に流れはローマ軍に移っていった。海を支配され、カルタゴ本国からハンニバルの元に援軍は届かない。ローマはイリバの戦いなどで勝利し、さらにスキピオの活躍でスペインを完全に制圧した。
カルタゴは祖国防衛のため、急遽南イタリアのハンニバルを呼びよせる。前202年、両雄はザマで対決。象軍団を無力化させたスキピオ軍は、三方から取り囲み勝利した。講和が締結され、カルタゴはスペイン、シチリア等の権益をすべて失い、軍を無力化されたが、自治権は確保できた。しかし問題にならぬ小国になりさがった。
ローマは、従来敗戦国でも多くは独立国として扱う「おだやかな帝国主義」を取り続けてきた。しかしこのころから強硬路線が目に付くようになる。前191年に始まったシリア戦争で、シリアを属国とした。あのアレキサンダー大王を輩出したマケドニア王朝を、前171年に始まった戦争で滅ぼした。一方で嫉妬からであろうか、一人が権力を握ることを恐れたか、カトー等はスキピオの兄ルキウスに対する使途不明金を追求し、スキピオを失脚させた。スキピオは、引退の後前183没、同じ年にハンニバルが自殺している。
前149年、カルタゴの傭兵がヌミデイアに侵攻した。元老院では穏健派をおさえ、あのカトーを初めとする強硬派が勢力を得、再三の交渉の後、カルタゴ征伐を決定した。結局、カルタゴは完全に破壊され、ローマによる再興まで待つこととなった。
各戦い当時の背景説明、総大将の人物比較、豊富な図を用いての軍の配置、戦闘の模様などの説明は、非常に分かりやすい。ローマ軍は、ローマ市民兵と同盟国兵、これに対してハンニバル軍は、自前の軍もあるが主体は傭兵である。同盟国がハンニバルの呼びかけにもかかわらず裏切らなかったのはなぜか、一方ハンニバルは、どのようにして長い間彼らをひきつけ、食べさせたかなどの考察も面白い。
ハンニバルの作った戦果を表した鋼板はフェニキア語とギリシア語で書かれていた、当時の国際共通語はギリシア語ではなかったか、という指摘も我々には耳新しい。

041205