ローマ人の物語W「ユリウス・カエサルルビコン以前」   塩野 七生

新潮文庫(8−10)

ユリウス・カエサルの自伝前半。この本を読むまでそれほどとも思わなかったが、カエサルの自伝さえ読めばローマのその時代が分かるくらい、存在価値の大きな人間だったということだ。しかも8-10はルビコン以前、11-13はルビコン以後の二つにわざわざ分けている。
紀元前100年、ユリウス・カエサルは、名門貴族の出ではなく、ローマの「七つの丘」の麓にある、庶民たちの住むスプッラと呼ばれる地区で生を受けた。
紀元前84年、16歳のときにキンナの娘コルネリアと結婚する。しかし紀元前82年にスッラがマリウス・キンナ派を退けて政権をとった。「処罰者名簿」に名が載り危うくカエサルは処刑されかかるが、親族の嘆願で許される。しかし「キンナの娘」を離婚すること、との条件がついた。ところがカエサルはこれを拒否、小アジアの属州長官のもとに逃げ込んだ。しかし13歳のおり祭司に任命されたことなどで、紀元前76年、27歳で母方の叔父アウレリウス・コッタ死去のあとを受け神祓官および大隊長に任命される。紀元前63年「カテイリーナの陰謀」でキケロ、小カトー等と論戦を繰り広げるなどして次第に名声を高めてゆく。以下年表風にまとめてみると
紀元前60年、40歳、次期執政官に立候補、一方でルッカでポンペイウス、クラッススと提携し「三頭政治」を密かに結成、元老院に対抗しながら国家改革の一歩を歩み始める。
紀元前58年、ガリア属州総督とし赴任し、副将にラビエヌスを得てヘルヴェテイ族の移動阻止などに取り組み。ガリア戦役の初年度にあたる。
紀元前57年ころより、ポンペイウスの消極性、護民官クロデイウスの暴走、小カトーの帰国などが相次ぎ、貴族の利益を守ろうとする元老院の三頭政治への反撃がはじまった。
紀元前55年、ガリア戦役4年目、ラインを渡河、ゲルマン族の分断を図る。またこの年および翌年にドーバー海峡をわたり、ブリタニア遠征。
紀元前54年、元老院派は執政官二人を独占、三頭派とのにらみ合い続く。
紀元前53年、クラッススがバルテイア遠征を開始する。ところが砂漠でバルテイア軍に撃破され、息子についで、敗走するクラッスス自身も殺されてしまう。(カッレの敗戦)こうして三頭政治の一角がくずれた。またローマとしてはケルト人来襲、ポエニ戦争におけるカンネの戦い以来の大敗であった。一方がリア戦役6年目を迎えたカエサルはランスで全ガリア部族長会議を開催、最後まで抵抗したアッコを処刑する。
紀元前52年、アレシア攻防戦で、ヴェルチンジェトリックスを降伏させ、ガリアをほぼ制圧する。しかしローマでは元老院がポンペイウスを取り込み、翌年にかけて反カエサル体制を強化する。カエサルは何度もポンペイウスへの接近を試みるが失敗する。
紀元前50年、カエサル軍団解散をめぐり、元老院派とカエサル派の対立が激しさをます。
紀元前49年、元老院はポンペイウスと元老院に無制限の大権を授与する法案を可決する一方、カエサルには元老院最終通告をつきつけ、軍の解散を命じる。ラヴェンナを出たカエサルはついに「賽は投げられた」と一個軍団を率いてついにルビコン川を渡る。
ガリア戦役を通してカエサルの戦争のやり方が詳述されている。敗れた敵に寛容の精神で望み、次第に自軍に協力させ、あわせて彼自身の立場を強化してゆくのである。また最後には元老院に担がれ、カエサルと対抗することになるポンペイウスとの比較も面白い。

041205