新潮文庫(11−13)
ルビコン川を渡ったカエサルがアドリア海沿いを南に周囲を従えながら向かっている、との報に接するとポンペイウスと元老院派の人々は、さっさと首都をすてて南に向かった。それどころか彼らはブリテイッシュに到着するや本国まで捨ててしまった。カエサルは、ポンペイウス勢力下のスペイン属州等を制覇した後、紀元前49年12月、ローマに入り、独裁官に指名される。この間、ポンペイウス軍は小アジアなどの軍団をまとめた。
紀元前48年4月ギリシャ・ドウラキウム包囲攻防戦ではポンペイウス軍が勝利するも、8月ファルサラスの会戦で完敗。この辺の経過説明が図入りで非常に面白い。結局ポンペイウス等はちりじりになり、彼自身はアレクサンドリアでローマ兵に殺害される。
紀元前47年、カエサルはアントニウスをローマに残し、エジプト遠征、プトレマイオス13世を退けた後、クレオパトラに王位をまかせる。ついで小アジアに上陸、カッパドキアでファルナケスをくだしあの「来た、見た、勝った」手紙。カエサルは、キケロと面会の後、ローマに戻るが、アントニウスの失政で、兵士の従軍拒否、経済停滞が起こっていた。彼はこの問題を巧みに解決する。
紀元前46年、アフリカでスキピオ軍、ヌミデイア王などポンペイウス派残党と対決し、これを下す。湖を囲んでの連合軍との戦い、定法に反して騎兵を中央に配し、中央突破で敵の後ろにまわったスキピオ軍との戦い、この後自決した小カトーの逸話等があきさせない。この後カエサルはローマに戻りはでやかな凱旋式。ユリウス暦を採用するようにしたのもこの年である。
紀元前45年、スペイン属州でポンペイウス派残党をくだす。政治面ではカエサルはパクスロマーナの確立と民生の充実、帝政化を企図して全面的な改革に着手する。元老院の増員、市民集会と護民官の有名無実化、金融改革、行政改革など矢継ぎ早の改革、従来のシステムのうみをだし、独裁体制にもってゆこうとする。
紀元前44年、カエサル2年間のバルテイア遠征を発表、元老院と市民集会はカエサルを「終身独裁官」に任命する。しかし3月ポンペイウス回廊でマルクス・ブルータス、カシウスほかに暗殺される。
紀元前43年11月、カエサルの遺言状にはオクタヴィアヌスが指名されていた。ボローニャでカエサルの代理を務めたアントニウス、カエサルの武将であったレピドウス、オクタヴィアヌスの「第二次三頭政治」が成立。アントニウス、オクタヴィアヌス連合軍はギリシャに出陣、フィリッピでブルータス、カシウス連合軍を下す。二人とも自死。
紀元前37年 アントニウス、パルチア遠征に向かい、クレオパトラと再会。ここですっかりのぼせ上がり、ローマにとって不利な条約を次々結んだため、元老院が怒り出す。ついにオクタヴィアヌスとアントニウス・クレオパトラ軍が対決することになる。
紀元前32年 アクテイウムの海戦でアントニウス・クレオパトラ軍大敗。
紀元前30年 アントニウス自死、アレキサンドリアを占領されクレオパトラ自死。オクタヴィアヌスはローマに凱旋し、帝政時代が始まる。
041205