新潮文庫
72歳のガルバは、皇帝ネロ自死のあとスペイン駐屯の軍団に押されて皇帝に推挙された。しかし事態の深刻さを認識せず、ローマに速やかに入るのに三ヶ月も要した。その上ボーナス配布など人心掌握策をとらなかった、協力者人事に失敗などで、急速に人望を失い、ライン軍団ヴィテリウス等の反乱を招き、就任半年で近衛軍団に殺害された。
次ぎにドナウ軍団の支持をうけて、ルシタニア統治で実績のある37歳のオトーが就任した。ライン軍団とポー河をはさんで対決、両群とも指揮系統が統一されておらずひどい戦いとなった(ベドリアクム戦)。オトー軍は敗れ、オトーは自死した。
54歳でヴィテリウスが皇帝に就任したが、彼もまた失政を重ねた。オトー側であった近衛軍団長を罷免する、兵士を労働に駆り立てるなどで、ドナウ軍団の不満を買うなどした。
ユダヤで休戦中のヴェスパシアヌス、シリアのムキアヌス、エジプトのテイベリウス・ユリウス・アレクサンドロスの東方の有力者三人が集まりヴェスパシアヌスを次期皇帝にすることで合意、反乱の狼煙をあげた。ポー川を挟んで第二次ベドリアクム戦が戦われ、ヴィテリウス軍が敗退し、ヴィテリウス自身は殺害された。
ローマ帝国は1年の間に3人の皇帝が殺害などで変わる、という事態を迎えたが、こうしてようやく落ち着きを取り戻し、60歳のヴェスパシアヌスを初めとする3代のフラヴィウス朝が幕をあける。ヴェスパシアヌスの幸運は、若いムキアヌスという協力者をえたことであった。このころ、ガリアではトレヴェリ族などが反旗を翻し、「ガリア帝国」なるものを宣言したが、彼の主導で70年には鎮圧された。また紀元66年に勃発したユダヤの独立問題は73年のマサダの玉砕で幕を閉じた。ヴェスパシアヌスは、元老院が皇帝不適格者の烙印をおせばタダの人に成り下がることを慮り、皇帝権を定めた皇帝法を成立させた。国勢調査を実施し、大幅な税収増加の道を開いた。後継者を息子のテイトウス、その後をドミテイアヌスと定め、70歳で他界した。
39歳で皇帝となったテイトウスくらいよい皇帝たろうと努めた人はいなかった。しかしポンペイ大地震、ローマの火災など不孝がおそった。そのためか、わずか2年で他界することとなった。
テイトウスはしばらくヴェスパシアヌスと共同で帝国を運営していた経験を持つが、30歳で皇帝になったドミテイアヌスにはそれがなく、しかも軍隊経験もなかった。それでもドミテアヌス競技場などの公共事業をおこした。ゲルマニア防衛策を強化し、カッテイ族の反乱を鎮圧、またブリタニア制覇行を行っていた総督アグリコラの帰国を命じ、スコットランド制覇を中止した。85年に勃発したダキアの反乱はフスクスの戦死などで苦戦するが、89年にようやく和平協定を結んで一段落する。しかし家庭問題の処理のまずさ等から次第に元老院との関係がまずくなってゆく。皇后ドミテイアつきの解放奴隷によって96年、44歳で暗殺される。没後、元老院は皇帝を記録抹殺刑に処すと決議した。
元老院はすぐに高齢のネルヴァを皇帝とした。ショートリリーフという感じである。五賢帝時代の始まりとするが、ネルヴァの唯一の業績は後継者に初めて属州出身のトライアヌスを指名したことだったとされる。
051026