新潮文庫
五賢帝というのは構成の歴史家がつけた名前である。ここではその中で実質的に優れていたトラヤヌス、ハドリアヌス、アントニウス・ピウスを取り上げる。
トラヤヌス帝は、スペインという属州出身のローマ人であった。70歳で王位についたネルヴァ帝に養子に迎え入れられ、その死後44歳で王位についた。このとき彼はケルンで防衛システムの完備にまい進しており、ローマに入ったのは1年後であった。
ダキアとはドミテイアヌス帝の時代に捕虜に賠償金を払うことを条件に和解していたが、ローマ人の不評をかっていた。当初から帝は、ダキアとの戦いをきめていたようだ。101年に始まった戦役の様子はトラヤアヌス円柱に詳しく記載されている。土木工事を伴いながらのドナウ渡河などをこなす整然とした進軍であった。タバエの戦いで勝利し、ダキアとはいったん平和が訪れた。
平和が訪れた後、帝は多くの公共工事をおこなった。幹線道路のほか、アポロドトスに命じて作らせたトラヤヌス橋の建設など。他にもトラヤヌス浴場、フォーラム、オステイア港整備、街道などを整備した。
やがてダキア側は、前線の第七団長を捉えるなどして、ローマからさらなる譲歩を引き出そうとして失敗、第二次戦役となった。しかし首都サラミテゲトウーザを落とし、ダキア王デケバロスを自死に追い込んで決着がついた。
ローマとパルテイアとの関係は、ポンペイウス以来のローマ文明とペルシャ文明の関係であった。しかしこの専制君主国家とは、33年のクラッススの敗北以来しばらく平和が訪れていた。アルメニアに起こった後継者問題を機会に、帝はパルテイアを打つ決意をし、113年に軍を進めるが、従軍中に発病し、死が訪れた。
その後を受けたハドリアヌス帝も、同様にイベリア半島出身の貴族であった。
ハドリアヌスが、41歳で帝王になったのはトラヤヌスの指名によるかどうかは定かでない。しかしダキア戦役などで若くして頭角を現していた。キャリアに文句のつけようがなく、頭脳明晰、信望も厚く期待された帝王であった。
ダキアにありながら、反ハドリアヌスの動きの見えた、トラヤヌスの重臣4人を呼び出して死刑に処し、権力を確立した。このことは帝を指示する元老院に大きな衝撃を与えたが、首都帰還1年で大規模な大盤振る舞いを行うと共に税の公平化などを図った。
ローマの皇帝たちは、その責務が安全保障、属州統治、帝国全域のインフラ整備などだったからか、多くの旅をしている。彼も例外ではなく長い長い「旅」を始め、いく先々で軍備の整備などにつとめた。ブリタニアではハドリアヌス防壁を作らせた。アテネには優遇策により活気をよみがえらせた。ようやく首都に戻ってからは、パンテオン神殿建設が有名である。また「ローマ法大全」を作らせた。ヴィラアドリアーナを作らせ、そこでは自分流の逃避生活を送った。
「割礼の禁止」とイエルサレムの目と鼻の先に作った軍団都市「アエリア・カピトリーナ」建設に刺激されたのか、132年頃ユダヤがコクバ等に導かれて、反乱を起こした。しかし簡単に押さえ込まれ、以後再びユダヤ人の「デイアスポラ」が始まった。こうして帝は成功をおさめたが、晩年は気難しい方針の定まらぬ皇帝になっていたらしい。
この後をうけたアントニウス・ピウスについて、余り記録は残っていない。模範的すぎる皇帝であった。ブリタニアの反乱を押さえ込み、アントニウス防壁を完成させた。
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