青酸カリについて       


我が国で青酸カリで人を殺した事件でもっとも有名なものは昭和11年の浅草の校長殺し事件と呼ばれるものである。この事件が新聞にのってから青酸カリ中毒が非常にふえたということだ。(古畑種基「法医学ノート」46p)
最近では推理小説を読むとやたらに「死体はアーモンド臭がし、青酸中毒であることははっきりしていた。」などという記述が多い。それほど推理小説では殺人の青酸ないし青酸カリは花形である。なにしろ、致死量をのむと、すぐにころりと行くのだから書く方にとっては都合がよい。後腐れがない。しかし誤った記述も多いのようなので、私なりに整理しておきたい。


毒性機構は複雑だが、シアンイオンがミトコンドリア内の3価の鉄イオンと結合して、好気的条件にあるすべての細胞の細胞呼吸に障害をおこすためにおこる。(エッセンシャル法医学(223p))したがって体内でシアンイオンを形成しなければ毒性は発揮されない。

青酸カリは正式にはシアン化カリウムのことで、融点635度の固体。よく似ているシアン化ナトリウムも融点564度の固体。空気中に放置すると炭酸ガスを吸収して重曹になってしまう。
いずれもそれだけではシアンイオンを発生せず、毒ではない。ただしこれが水に溶けたり、酸と反応するとシアンイオンあるいはシアン化水素を発生する。

一方シアン化水素は融点マイナス13.3度、沸点25.7度で通常では液体である。水やアルコールによく溶け、シアン化水素酸通称青酸でシアンイオンを発生するから猛毒である。
青酸中毒からの回復をはかるには亜硝酸アミルの吸入、亜硝酸ナトリウムの吸入などを行う。(エッセンシャル法医学)

体の中で酸性であるところは2カ所ある。一つは胃で、青酸カリ自殺は飲んだ青酸カリが胃の中で胃酸と反応してシアン化水素あるいは青酸を発生する。しかし口紅にしこんだ、などというのはあてにならない。使用した場合、皮膚を犯す作用があるから、ただちに水洗する必要があるが、すぐに死ぬという訳ではない。もう一つは女性の膣である。由良三郎の短編小説「勘違い」では、自慰用具に塗りつけておいて殺す、という話がある。

たばこに仕込むという考えは、たばこが燃焼し、炭酸ガスと水を発生し、青酸塩と反応すると考えられるので、可能性が高い。このエッセイを書いているうちに、水で薄めて注射したらどういうことになるか、との疑問がわいたが、これも簡単に死にそうだ。

青酸カリは、薬局で手にいれようとすれば名前、使用目的などを書かなければならない。しかし鋼の熱処理、金、銀、鉛などのメッキ、分析試薬、などに用いられ、一般の人が手に入れられないことはない。もちろん試薬としても販売されている。青酸カリを薬局で足がつかないように手に入れる努力は、クロフツの「クロイドン発12時30分」にでている。主人公は雀蜂退治のため、と称し、偽名で買い入れるのだが、突き止められてしまう。


これに対しシアン化水素は殺虫剤などに使われるが、猛毒であるため、一般には手に入れにくい。試薬としても販売されていないようだ。
木々高太郎の「我が女学生時代の罪」では絵の具の中にシアン化水素がまぜてあった。ストーブで暖をとりながら、画作に励んでいるうちに、シアン化水素が蒸発してきて死んでしまう、というのがあるが、「まさか?」と首を傾げさせられる。福本和也の「謎の巨人機」は「込み合う東京空港にジャンボ機が緊急着陸。しかし、クルー、乗客全員80名あまりがすでに死亡していた。」というショッキングな出だしだが、これはエアダクトにおいた消毒用の青酸ガス発生装置が原因。ただし、こんな芸当はとてもプロでなければできる訳がない。


よくこれらの混乱を避けるために「青酸化合物」というあいまいな表現を用いる作者がいる。これだとニトリルやシアノ錯塩まで含まれることがあるから、猛毒であるとは限らない。これなら「猛毒物質」とでも書いた方が良心的?

追記 この項についてのご意見を特に求めています。教えてください。

ご意見について

このエッセイにつき、山蟻様から貴重なご意見を頂き、本文を一部訂正しました。また以下に抜粋を掲げさせていただきます。

毒物を扱ったミステリーの中には、考証がいい加減なものが数多くあるようです。かなり有名な−懸賞小説の冠名にもなるような−作家の作品にも見かけることができます。ストーリーを面白くするためにはある程度の誇張はやむを得ないかもしれませんが、その辺は旨く誤魔化すように書いて貰いたいものです。
 阿笠さんがご指摘のように口紅に仕込んだり、自慰用具に塗りつけてなどして、殺人など出来ないでしょう。青酸カリの致死量はおよそ200mgです。200mgというと、一般の人にとっては少量のように思えるかもしれませんが、見た目にはかなりの量になります。それを口紅からとるようにするには、おそらく被害者に口紅を一本食べて貰わなければなりません。また、青酸入り口紅はメーカーに特注で作って貰わねばならないでしょう。青酸カリも青酸ソーダも強いアルカリ性ですので皮膚を腐食します。自慰用具などに使ってこすったら即座にアカンペロン!!になってしまいます。またシアン化水素は非常に蒸気圧が高く揮発性で、常温ではすぐに気化してしまい、ものに塗ったりしても何の効果も期待できないはずです。
 昔読んだ、有名な作家の「○○荘殺人事件」(もしかすると、同じ作家の別名小説だったかも?)という本の中で殺人にトリカブトの根が使われるところがありました。みそ汁の中にトリカブトの根をたった一個入れて殺人を行ったのです。そんなに毒性の強い植物が自然界にあると思いますか(トリカブトは猛毒だと言い張る友人の前で、根をかじって見せて納得して貰ったことがあります)。
 アイヌがトリカブトの毒を矢に塗って猟をしたことは有名です。彼らはたくさんのトリカブトの根を集め、大鍋で煮込んで毒成分を抽出し、最後に煮詰めて底に残ったエキスを毒として使ったのです。
 本を読んでいて、そのくだりにきたとき、それまで面白く読んでいた気分がいっぺんにしらけてしまったことを思い出します。
 その他、青酸カリをしみ込ませた縄をかみ切って死んだとか、切手に仕込んだ毒をなめて死んだとかいろいろ考えた方法を見たことがありますが、いずれも致死量を摂取するにはほど遠い手段だったと思います。自然界で最も強い毒と言われているのは、フグ毒のテトロドトキシンです(サリン、VXは人間の作り出した毒)。青酸カリの数百倍の強さがあります。精製されたこれを用いて前記の手段を使ったというなら、さもありなんと納得するかもしれません。(実はフグ毒にあたったことがあります。そのとき、からだが動かなくなってしまいました。)
−−−ちなみに青酸カリのLD50値は10mg/kg、青酸ソーダのLD50値は15mg/kg、テトロドトキシンのLD50値は0.01mg/kgです。LD50(エルディフィフティと読みます)値とは実験対象の動物群が半数死ぬ体重1kgに対する量です。−−−−
 フグ毒を手に入れるのは非常に簡単です。釣り竿を持って海に行けばいいのですから。私が毒で人を殺すなら、絶対フグを使いますね。フグの内臓をみそ汁の中にポンと一つ入れておけば、それを飲んだ人の90%は殺すことが出来るだろうと思います。青酸カリ、青酸ソーダは大変苦いものです(自分で嘗めて確かめています)。これを致死量摂取させることは、相手が相当の味覚音痴か、苦くとも飲まなければならないと思った時でなければ、まず不可能だと思います。たぶん刺激のある味で誤魔化しても、途中で気付かれてしまい、致死量までは到達しないのではないでしょうか。
 青酸化合物で最も可能性のあるのは青酸ガス(シアン化水素)かもしれません。スパイ映画で電話ボックスの中にシアン化水素のアンプルを投げ込んで殺すのを見たことがあります。これなどはまったく無理がないと思います。青酸ガスは皮膚呼吸によっても体内に取り込まれますので、マスクをしていても防げません。
 シアン化水素を水に溶かしたもの(青酸)を飲ませる手も考えられます。これは苦くありません。どちらかというと酸っぱい味がするかもしれません(味見したことはありませんが)。しかし、誤魔化すため味付けに何かを入れると、青酸ガスが飛んでいってしまうおそれがあります。
 結局、青酸化合物を殺しの道具に使う場合、かなりプロットに工夫がなければ、せっかくのストーリーをぶち壊してしまうでしょう。(98'8.17)

阿部様からも貴重なご意見を頂きました。以下に抜粋を掲げさせていただきます。

推理小説における毒物のヒーローは「青酸カリ,ナトリウム」でしょう。
致死量 わずか 0.2g,耳掻き1杯で人が殺せる恐ろしい毒物..

しかし,その薬効発現の機序は,ご指摘の通り,酸性下で シアン化水素を出す為で口紅に仕込んで,それが皮膚に付いたから即死ということはないと思います。
(それでも十角館は名作ですが..)
この前,TVを見ていたら,レモンに青酸カリの高濃度の水溶液を仕込むという トリックがあり,しかも,練習の為に大量にレモンを購入した所から足がつく.というものでした。 犯人が目的を達する前に,犯人が死んでしまいそうです。

青酸混入事件が発生すると,マスコミは「わずか 0.2g」で大人1人を殺せる猛毒..と,連呼しますが,本当に 0.2g という量は そんなに わずかな量? なのでしょうか?
病院で一番よく目にする 7mm径の錠剤1錠の重さは 150mg前後 .. 0.15gです。
(風邪薬や,鎮痛薬は主薬が沢山必要なので重く大きいです。)
錠剤なので,ぎゅうぎゅう詰めである事は間違いありません。 水に沈むので,比重は1より大きい..
青酸カリは,無機塩なので,比重は大きい方でしょうが,それでも 0.5 はないでしょう。(実物は見たこと無い)
通常の粉の比重は 0.4〜0.5.. ふわふわした感じの結晶なら 0.2〜0.3しかありません。
むかし,理科の実験で使った 水酸化ナトリウムは,潮解性がある為,粒状にしていますが あの1粒の重さは だいたい 0.1g前後です。 相当大きな耳掻きである事は疑う余地はありません。

少量で人を殺す危険な毒物... というイメージを与えたいばかりに,やや誇張された表現で 報道されている為だと思いますが,少々,惑わされている気がします。
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 しかし,これが水溶液で混入という事になれば話は,変わってきます。
1ccでも 1gですから, 1滴は 約 50mg... 1滴や2滴では無理ですが,10滴も入れれば完璧。 錠剤や粉の場合よりは,ずーっと簡単そうです。 特に青酸Naは,水に良く溶けるそうなので, 分子量の事を考えても,青酸カリより青酸ナトリウムの方が有利なようです。
 アーモンドの匂いは有名ですが(しかし嗅いだことはない),味は相当,刺激があるらしく 例の青酸,砒素混入カレー事件で,「カレーの味とは思えない位,変な味がしたので,一口食べて 吐き戻した」と証言した人もいる位ですので,(ちなみに砒素は無味無臭),相当に刺激的な味 なのでしょう。

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 今回は,誰もが知っている青酸カリの致死量に関して考えてみました。
 読み返すと,恐ろしい. 怖くなってきました。
 それなりのリアリティをもって,推理小説を書く事は,難しいものです。
 推理小説を書く時の参考になれば,良いのですが..

 僕は,一番怖い毒は有機リン酸系の毒だと思います。
 何しろ,無味無臭..,経皮吸収,有効な解毒剤がない,非常に苦しい..らしい。
(特にすんなり逝けなかった場合は地獄だ。という事を聞いた気がします。)
 昔,毒入り(有機リン酸系)コーラ事件の時には,解毒方法がないと言っていましたが.. 地下鉄サリン事件で,解毒剤をTVで見ましたが,最近は有効な解毒剤があるのでしょうか?(98'8.19)