貝塚茂樹 講談社学術文庫
孟子の活躍した戦国時代は、「春秋」の終った前481年以降、前221年秦の始皇帝が統一に至るまでの東周時代後期をさす。南方の強国楚に、中原の韓、魏、趙、斉、さらに辺境の秦、燕の七つの強国がひしめき、当代一流の有名な外交家や雄弁家が活躍した。
春秋末期に出た孔子は魯の国出身であったが、周公の作った制度を理想とし、その復活を願った。失敗した結果、諸国を流浪の旅を続けた。しかし孔子は全ての国で失敗し、結局帰国して弟子の育成に当たった。弟子たちは、多くは新興武士階級で僭主の家臣となり、あるいは師となって活躍した。その影響は非常に大きくやがてあらわれる中央集権的な性格をそなえた新官僚群を形成することとなった。
孔子は、生卒の年代がはっきりしているが、その後継者たる孟子ははっきりしていない。小国鄒に生まれた。この書は、彼が梁の恵王の招聘に応じて以後、斉、(とう)などの諸国における晩年の政治思想家としての活躍期と、最晩年の故国鄒において弟子の教育に従事した引退期以降が書かれている。従って孟子の前半期は、全く不明である。その思想は、孔子の弟子子貢を師とする「斉の儒教」の影響が大であるが、儒教以外の異端思想からも多くの影響を受けている。心を清浄・空虚にして、いわゆる「浩然の気」を養うという思想などもその特色と言う事ができようか。
「孟子」は全部で14巻あるが、私が今回読んだこの書は、さわりを抜粋したもので、書き下し文と解釈文、それに著者のコメントが掲載されている。期待と違ってかなり、著者は孟子にかなり批判的である。
最初の6巻は、弟子たちの知っている孟子の後半生の伝記的知識をもとにして、大体歴史的順序に従って配列したものらしい。
孟子は、前320年頃、梁の恵王の下に現れた。王は「千里の道をものともせず、来てくださった。さぞかし斉に破れ,秦の東侵におびえるわが国の危機を救って下さる妙薬を持ってきてくれたに違いない。」と期待して尋ねるが「王何ぞ必ずしも利を言わん、亦仁義あるのみ」つまり、お国の利益になることを申し上げにきたわけではなく、国家社会を維持する仁義の道徳を、お国にすすめにきたのだ、という。
孟子は、ここで盛んに仁政を説いたけれども、恵王が亡くなって襄王が即位した。しかし襄王は「人に君たる方」とは思えない、とその元を去り、斉の宣王の元に行く。孟子は、燕国が内乱を起こしていると知り、宣王が侵略することを支持した。しかし占領政策は失敗に帰し、さらに王との間に亀裂が生じてしまう。王を教えると言う権威を守るためにお召しにもかかわらず、病気を理由に出仕しない。著者は「孟子が自信家でへりくだることのできぬ性格、換言すれば富貴に対して劣等感を持っていたことが原因かもしれない。」と述べている。結局ここも去り、故国鄒に戻り政界から引退したように見えた。
しかし旧知の(とう)の文公の招きに応じて出仕した。井田制という古代の農政を復活し、この小国を理想の王国にかえようとした。他の多くの思想家に衝撃を与え、儒家の陳良、農家の許行などが大国楚からかけつけて、自己の学説を実行させようとした。
7巻以降は、歴史的には何時行われたのか不明の記録、孟子自身の言葉などを無秩序に編纂したもののようだ。11巻、12巻における告子との論争は、孟子の思想を知る上で重要。人間の本性は善でも悪でもないとする告子に対し、孟子は人間の本性は本来善であり、この素質を育て上げれば、人間誰でも善人になりうると性善説を展開する。13巻、14巻では断片的な短い言葉が多いが、晩年の洞察と英知にあふれたものが多い。「自分の本心を十分に発展させたならば、本姓を悟り、天命を知るであろう。」「君子には三つの楽しみがある。父母が二人とも健在で兄弟が息災に暮らしていること、上を向いても下を向いても恥じる事がないこと、天下の英才を集めて教育することの三つである。」「正義の戦争と言うものは一つもない」「人民がもっとも大切、土地の神と穀物の神がこれにつぎ、君主は最後だ。従って人望が大切」など現代でも考えさせる。
080305