「老子」

講談社学術文庫

老子と言う人物は、紀元前6世紀頃の人物となっているが、本当にいたのか、いないのかどうも怪しい。いたとしても隠子のような生活を送っていたようだ。
81の断片的言葉、5千数百字からなり、それらはさらに上篇、下扁に分かれるが短い。論語は特定の個人が語り主となっているが、こちらはおおむね背後に隠れている。個人の著作と言うより編纂ものといった色彩が強い。

「無欲にしてその妙を見、常に有欲にしてその徼を見る。」
これが「道」と言って人に示せるようなものは、真実の道ではない。これこそが「名」だと言って言い表すことの出来るものはない。「名」としてあらわせないところに真実の「道」があって、それこそが天と地の生まれる始まりである、とした上で上述の言葉が現れる。
裏返してみると「真実でない道」と言うのは、たとえば政治はこうだ、民衆はこうして導けばいい、というようなものはない。「名」とふつう称しているものは、名誉、名声などに近く唄に出てくる「名を立て、神を上げ・・・・」のような名かも知れぬ。

そういった中で、人は無欲で純粋であれば、その微妙な唯一の始源を認識できる。徼という字は難しいが、明白と言う意味のようだ。後半は欲望のとりこになっているのであれば、差別と対立に満ちた末端の現象が分かるだけだ。

しかしこれが政治の話になるといささか現代人にはなかなか難しい。
為政者が才能あるものを重視しなければいい、珍しいもの貴重なものとしなければ人の物を盗んだりしない。聖人の政治は人民を知識や欲望のない常態にさせ、一方で腹を一杯にし、筋骨を鍛えさせればあの知恵者どもが人民をたぶらかすこともなかろう。仁愛の徳など必要ではない。それらはもともと乱れの結果生じたものである。英知を捨てれば人民の利益は増し、仁義を捨てれば人民は孝慈の心を持ち、小手先の技巧を捨てれば盗賊はいなくなる。さらに学ぶことをやめれば憂いも少なかろう。
天も地も自分で生きようなどしないから長く生きつづける。聖人はわが身を人の後に於きながら、それでいて人に押され手先立つのだ。最高のまことの善とは水のようなものだ。水は万物の成長を助けて、しかも競うことがなく、多くの人がさげすむ低いところに留まっている。「道」の働きに近い。「上善水の如し」しかし何時までも器を一杯にしておくことはやめたほうがいい。金銀を溜めたり、富貴に驕ったりしては、その咎を残す。「功遂げて身の退くは、天の道なり」
世俗の価値より大切なのは自分自身だ。多くは寵愛と屈辱にいつもびくびくし、名誉とか財産を考えて心配している。しかしこうしたことは身体あってこそ、であるから、一番大事なのは身体、それを大切にする人にこそ天下を任せる事ができる。

君主の軽挙妄動はいけない。静かに落ち着いたものが騒がしき者の主君となると心得よ。天下を争奪する者どもは、まず無為自然であれ。諸侯や王は道のことさらなしわざのない「無為」の動きを知って実践するならあらゆるものはおのずから成長するであろう。
目標を立ててその達成のために努力するのがよいことのように言われているが、齷齪するだけで、結局は滅びの道へ通じてしまう。聖人は偏った執着を持たず過剰な欲望を切り捨てて対象に対して只管自然にしたがってゆくのがいい。戦争は勝利を収めたらそれでやめる。決して無理をしない。武器は不吉なもので戦いには勝っても負けても悲しみに沈むくらいがいい。

以下、同じ様な内容で下篇に続いてゆく。
政治家の考え方、としてはとてもこのせわしない現代に受け入れられるものではない。ただ、この考え方は我々のような現役を終えた老人の生き方としてはかなり参考になるのではないか、と感じた。名誉や名声を求めない、流れに従いゆれている葦のように、学問をしないというところはともかくも、それでいて邪心はもたぬ、体は強く・・・・。

080305