第1回 安曇野検定

 

 

一般の部 試験問題

 

 

問題1〜問題50

 

 

問題51 飛騨・木曽・赤石の3つの山脈の総称として「日本アルプス」という呼び名があるが、「日本アルプス」と命名したイギリス人は?

 

 ダウランド

 サザーランド

 ウェストン

 ゴーランド(ガウランド)

 

私の解答  ゴーランド(ガウランド)

ウィリアム・ゴーランド(ガウランド)は、1877年に槍ヶ岳に外国人として初めて登頂し、「日本アルプス」の命名者として知られるイギリス人です。

ウォルター・ウェストンは、日本近代登山開拓の父と呼ばれるイギリス人宣教師です。1896年にロンドンで刊行した「日本アルプスの登山と探検」で、日本アルプスを海外へ紹介しただけでなく、日本に近代登山の風を送り込むことになりました。1986年には、堀金須砂渡にウエストン像が建立され、2年後に来日100周年を記念して、同地にウエストン記念館が開館しました。

 

 

問題52 古くは「まゆみ岳」と呼ばれていた北アルプスの山は?

 

 燕岳

 蝶ヶ岳

 常念岳

 大天井(おてんしょう)

 

私の解答  常念岳

 常念岳は、古くはまゆみ岳と呼ばれておった。ある日、有明山の方から真っ白な火の玉が飛んできてまゆみ岳の中腹に消えたそうな。やがて年の暮れになり、村の市が大勢の人々で賑わいをみせていた頃、日が暮れ酒屋が店じまいの準備をしていると「酒、五升おくれ」。見ると髪の毛を背中までたらし、ぼろぼろの衣を着て、杖を突いた年寄りの坊さんが、五合徳利を差し出して立っておったそうな。「ご冗談を、五升なんて入りません」と主人が言うと、「文句を言わず五升入れてくれ」と坊さんは怒鳴ります。主人は仕方なく酒を注ぎ始めると、不思議なことに五合徳利に五升の酒がすっかり入ってしまったそうな。その後も村の市がたつと、決まって坊さんが現れて酒を買って行くので、若い衆が山へ向かう坊さんの後をつけていくと、年寄りとは思えないすごい速さで歩き、まゆみ沢の中へ消えていったそうな。この話を聞いた村人は「そりゃー八面大王の一の子分の鬼で、八面大王が討たれた時にまゆみ岳に飛んで来た常念坊に違いねぇ」。それから常念坊の住みついているまゆみ岳のことを常念岳と呼ぶようになると、常念坊は姿を見せなくなりましたが、今でも雪形としてその姿を見せ続けています。

 

 

問題53 古来より名峰有明山を詠んだ和歌は多いが、「かたしきの衣でさむくしぐれつつ有明山にかかるむら雲」と詠んだのは?

 

1 後鳥羽上皇

 後醍醐天皇

 後白河法皇

 白河上皇

 

私の解答 1 後鳥羽上皇

 「かたしきの衣でさむくしぐれつつ有明山にかかるむら雲」。新古今集を勅撰したことで有名な後鳥羽上皇が、仁科盛遠に与えた和歌です。

 

 

問題54 扇状地といえば、上から扇頂・扇中・扇端と大きく3つの部分に分けることができるが、縄文時代から現代にかけて集落形成が進展した順序として正しいのは?

 

 扇央→扇端→扇頂

 扇端→扇央→扇頂

 扇央→扇頂→扇端

 扇頂→扇端→扇央

 

私の解答  扇頂→扇端→扇央

扇状地とは、川が山地から平地へ流れ出る際、川の勾配が急に小さくなり流水の運搬力が急減するため、上流から流れてきた砂礫が堆積してできた扇状の地形です。安曇野は、黒沢川・烏川・中房川によってできた複合扇状地です。頂点を扇頂、末端を扇端、中央部を扇央といいますが、集落形成は水の豊かな扇頂→扇端→扇央という順序で進展しました。

 

 

問題55 安曇一族の英雄、阿曇(安曇)比羅夫が、大将として唐・新羅の連合軍を相手に交えた戦は?

 

 白村江(はくすきのえ)の戦い

 鴨緑江(おうりょくこう)の戦い

 漢江(はんがん)の戦い

 イムジン河の戦い 

 

私の解答  白村江(はくすきのえ)の戦い

 白村江の戦いは、663年、朝鮮半島の白村江での、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦いです。日本は、唐・新羅連合軍に攻略された百済の救援のために、阿曇(安曇)比羅夫らを大将として軍を進めましたが大敗し、百済は滅亡。これにより日本は朝鮮半島進出を断念しました。阿曇(安曇)比羅夫は穂高神社若宮に祀られています。

 

 

問題56 拾ヶ堰の正式名称は、「拾ヶ村組合堰」であるが、次に挙げる村の中で、10ヶ村に含まれていないのは?

 

 熊倉村

 柏原村

 等々力町村

 成相町村

 

私の解答  熊倉村

 安曇野の堰の中でも拾ヶ堰は最大規模で、江戸時代後期の1816年に開削されました。全長は15km、ほぼ標高570mの等高線に沿って安曇野の中央部を貫いて流れ、高低差は5mほどです。奈良井川(松本市島内)の水を取水し、梓川を横掘りし、烏川に流れ込むまで、昔あった10ヶ村(成相町村・吉野村・新田町村・上堀金村・下堀金村・柏原村・矢原村・保高村・保高町村・等々力町村)をたどるように、今もゆっくりと流れています。

 

 

問題57 長野自動車道・豊科インターチェンジが開設されたのはいつか?

 

 昭和43

 昭和53

 昭和63

 平成3

 

私の解答  昭和63

 長野自動車道は、中央自動車道の岡谷JCTを起点とし、上信越自動車道の更埴JCTを終点とする高速道路です。開通は昭和61年から始まり、昭和633月松本ICまで、昭和638月豊科ICまで開通し、平成53月全線開通となりました。平成2211月梓川スマートIC供用開始され、豊科ICはまもなく安曇野ICに名称変更されます。

 

 

問題58 安曇野には多くの用水が引かれているが、縦堰に対する横堰の説明として、適切でないものは?

 

 水量が多い

 水量がほぼ一定である

 水温が低い

 流れがゆっくりしている

 

私の解答  水温が低い

 山地の傾斜を利用して水を流す縦堰に対し、等高線とほぼ平行に水を流す横堰は傾斜がほとんどないので、水量が多く、水量がほぼ一定で、流れがゆっくりしているため水温も高くなりますが、測量技術は高度を要し、泥が詰まったり水草が生えやすいという欠点があります。

 

 

問題59 安曇野の水田を潤す横堰として、最初(1654)に開削されたのは?

 

 矢原堰

 勘左衛門堰

 新堀堰

 新田堰

 

私の解答  矢原堰

 矢原堰は、1654年、矢原村の庄屋だった臼井弥三郎によって開削されました。犀川(高家熊倉)から取水し、穂高神社付近で欠けの川に流れます。全長8,3km、主に矢原、白金、等々力、穂高町、等々力町の水田を灌漑しています。

 

 

問題60 明科地域で筑北村との境界に位置する場所で、標高最高地点(944,2メートル)はどこか?

 

1 長峰山

 萱野峰

 虚空蔵山

 四阿屋山

 

私の解答  萱野峰

 

 

問題61 長野自動車道の明科トンネル付近で発見された「北村遺跡」の調査成果で、内陸部から発見されたものとしては考古学・人類学史上の大発見とされるものがあるが、それは何か?

 

1 縄文時代の丸木舟

2 ドルメン式古墳

 完全形の甕棺(かめかん)

 縄文時代の多数の人骨

 

私の解答  縄文時代の多数の人骨

北村遺跡は、昭和62年、長野自動車道建設時に明科トンネル入口手前付近で発見された、縄文時代後期の遺跡です。約300体の人骨が出現し、内陸部においての考古学・人類学史上の大発見とされています。ちなみに、むし歯が0,16本と全国一少ないそうです。これらは、千曲市の長野県立歴史館に収蔵されています。

 

 

問題62 大正15年、地元の先覚者である倉科多策や武田新平の尽力により、長野県水産試験場の前身である県営犀川ふ化場が明科地域に誘致されたが、その決め手となったのは?

 

1 篠ノ井線・明科駅が近くにあったことから都市部への大量輸送が可能であった

2 犀川からの取水が容易であった

 大正時代に犀川の護岸堤防が築かれ、わさび田を造成したことにより豊かな湧水が生じた

 明科地域では、小規模ながら既にマスの増殖が行われていた

 

私の解答  大正時代に犀川の護岸堤防が築かれ、わさび田を造成したことにより豊かな湧水が生じた

 

 

問題63 かつて化学肥料などが使用される前は、里山で採取した草や樹木の茎葉を緑のまま水田や畑に敷き込むことが行われていた。明科地域の山もほぼ全域がその頂上まで里山の範囲にあり、この方法がとられていたが、これを何という?

 

1 苅敷

2 緑敷

 生敷

 青敷

 

私の解答 1 苅敷

 

 

問題64 三郷地域では最古の遺物であり、縄文時代草創期(10,000年〜12,000年前)、既にこの地で縄文人の活動があったことを裏付ける遺物が東小倉遺跡から出土しているが、それは何か?

 

1 投げ槍の先に取り付ける有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)

2 四頭石斧

 土製紡錘車

 けつ状耳飾り

 

私の解答 1 投げ槍の先に取り付ける有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)

 東小倉遺跡から、長い二等辺三角形の基部に、短く逆三角形の舌部のつく独得の形をした有舌尖頭器が出土しています。狩猟用の投げ槍の先に取り付ける石槍の一種で、縄文時代草創期(10,000年〜12,000年前)の遺跡と推測されています。

 

 

問題65 三郷地域の楡(にれ)住吉神社西側に位置する三角原遺跡から、奈良〜平安時代に政府が発行した皇朝十二銭の11番目の銭貨が出土しているがそれは何か?

 

1 和同開珎

2 万年通寶(つうほう)

 貞観通寶

 延喜通寶

 

私の解答  延喜通寶

 三郷の住吉神社西側に位置する三角原遺跡から、奈良〜平安時代に中央政府が発行した、皇朝十二銭の11番目の銭貨である延喜通寶が出土していることから、平安時代後期の遺跡と推測されています。

 

 

問題66 三郷地域には、黒沢川・鳴沢川の2つの河川が流れているが、両川とも流れが途中で消滅している。このような川を何と呼ぶか?

 

1 消滅川

2 ()消え川

 迷い川

 末無川

 

私の解答  末無川

 黒沢山に源を発した、北黒沢川・南黒沢川が合わさり黒沢川となります。三郷の住吉神社付近で川の水が伏流水となり末無川(尻無川)となります。

 

 

問題67 豊科地域の東山山地、大口沢の土採場から、その動物の仲間としては世界最古の化石が発見されているが、その動物とは?

 

1 アシカ

2 クジラ

 イルカ

 アザラシ

 

私の解答 1 アシカ

 1999年に光城山、大口沢手前の採石場から発見された化石は、世界最古のアシカ科の左下骨の化石です。1,200万〜1,300万年前の地層と考えられ、詳細な種類まではまだ分かっていませんが、歯の特徴からアシカの仲間でも原始的なものであると考えられています。現在、信州新町化石博物館に収蔵されています。

 

 

問題68 大正時代のある時期を境にわさびの生産が盛んになり、生産量が飛躍的に伸びた。その一番の理由は何か?

 

1 スーパーわさびともいうべきわさびの新品種が開発され、生産が容易になり、収穫量も増えた

2 県が農業政策の一環として、わさび生産奨励金を出した

 伊豆・静岡のわさびが関東大震災により大打撃を受け、安曇野わさびの需要が一気に伸びた

 信濃鉄道が開通し、東京方面への大量出荷が可能になった

 

私の解答  伊豆・静岡のわさびが関東大震災により大打撃を受け、安曇野わさびの需要が一気に伸びた

 

 

問題69 明治10年代後半、当時の南安曇郡の諸官庁が設置されたり、近郊の養蚕景気等で、豊科成相周辺において花柳界が急速な勢いで形成されていった。かつての繁華街の中に今も地名として残っているところは?

 

1 呑みせぎ橋

2 きつね小路

 うろたえ橋

 三軒横丁

 

私の解答  うろたえ橋

 現在のまちづくり会館の脇に、「うろたえばし」と書かれた石碑があります。豊科の花柳界はうろたえ橋周辺、穂高の花柳界は常磐町の狐小路でした。

 

 

問題70 明科塔ノ原の「犀宮(さいのみや)社」で立てられる幟旗は、珍しいことに赤い色をしている。そのゆえんとして泉小太郎にまつわる一つの伝説が伝わっているが、それはどういうものか?

 

1 小太郎の母の犀龍は自分の姿の醜さを呪い、流した涙が赤い血の色をしていた

2 犀龍は体が赤かったことから「赤龍」といわれていた

 犀龍が山清路の巨岩を突き破った跡には、幾つもの赤い筋が残っていた

 犀龍が現れると、たちまち赤い雲が生じた

 

私の解答 2 犀龍は体が赤かったことから「赤龍」といわれていた

 昔、安曇野の辺りは大きな湖であったそうな。ここに犀龍という女の龍が住んでおって、高井郡高梨に住む白龍王を夫に迎え、鉢伏山で泉小太郎を生んだそうな。小太郎は松本放光寺山あたりですくすくと成長したが、小太郎が大きくなるにつれ、母の犀龍は自分の醜い姿を恥じて湖の中へ沈んで隠れてしまったそうな。泉小太郎は母を捜し回って、熊倉の奥の尾入沢というところでようやく母と再会することが出来たそうな。母の犀龍は「私は諏訪大明神の化身です。この湖を突き破って水を抜き、人の住める平地を作りましょう」と語り、小太郎を背中に乗せて、山清路の巨岩を突き破り、さらに下流の水内の巨岩を突き破り、千曲川筋から越後の海まで乗りこんで行ったそうな。こうして安曇野に広大な平野が出来たのだそうな。なお犀龍は体が赤かったことから赤龍ともいわれ、明科の犀宮社で赤幟を立てるのはこのためだといわれています。

 

 

問題71 安曇野市には、県宝に指定されている仏像が3件あり、その内の2件が明科地域にある。1件は光久寺の木造日光菩薩立像・月光菩薩立像である。さて、もう1件は?

 

1 雲龍寺の木造大日如来坐像

2 長光寺の木造薬師如来坐像

 泉福寺の木造金剛力士立像

 龍門寺の木造聖観音菩薩坐像

 

私の解答  泉福寺の木造金剛力士立像

 光久寺の木造日光菩薩立像・月光菩薩立像は、善光寺仏師妙海の作で鎌倉時代末期の優品です。泉福寺の木造金剛力士立像は阿形・吽形の仁王像で、室町時代初期の作品です。

 

 

問題72 堀金地域にあり、当初は下堀金村の畑作用農地として開墾された地区はどこか?

 

1 扇町

2 倉田

 上堀

 中堀

 

私の解答 1 扇町

 扇町は、当初は下堀金村の新切村(畑地として開墾された土地)でしたが、1861年の新堀堰(堀廻堰)開削で開田されました。倉田は、当初は上堀金村の新切村でしたが、1811年の倉田堰開削で開田されました。

 

 

問題73 堀金地域9地区の成立過程は、開墾・開田の歴史そのものであり、先人の並々ならぬ苦労がしのばれるが、9地区の1つである倉田、その命名にも住民の切なる願いが込められている。その願いとは?

 

1 畑を水田に変え、田の耕作をして稲を栽培し、倉が建つように

2 それまでの小さな田んぼを整理して大きくし、収穫量を上げ、倉が建つように

 貧弱な水路の改修をして水の安定供給を図り、収穫量を上げ、倉が建つように

 他の村に負けないほどに米倉の多い土地になってほしい(倉多が倉田になった)

 

私の解答 1 畑を水田に変え、田の耕作をして稲を栽培し、倉が建つように

 

 

 

問題74 堀金地域には岩原村(現在の堀金岩原)宮大工であった豊八兄弟の手による社殿が多く残されているが、兄の浅川豊八が棟梁として腕をふるった最初の作とされ、素晴らしい彫物の残る本殿は?

 

1 岩原山神社本殿

2 下堀諏訪神社本殿

 田多井加茂神社本殿

 田尻諏訪神社本殿

 

私の解答  田多井加茂神社本殿

 

 

問題75 烏川の支流小野沢の西におたね沢(一名薬師沢)があり、その水源には小さな祠とおたね薬師如来が祀られている。この泉で洗えば眼病が治るなど不思議な力があるとされ、遠くからも水を汲みに来たといわれているが、さてこの「おたねの泉」の名の由来は?

 

1 この水を飲むと子が授かるといわれていた

2 この水に種もみを浸せば、良い苗が出来、旱魃にも強いとされた

 飛騨から父を尋ねて来た姉妹があり、その目的を果たせないまま妹はすげくぼで、姉のおたねはこの泉のほとりで亡くなったという話が伝わっている

 大旱魃に困り果てた堀金の農民が雨乞いをしたところ、おたねという娘の夢の中に水神様が現れ、水の出る場所を教えてくれたので、その場所を少し掘ると清水が湧き出したという話が伝わっている

 

私の解答  飛騨から父を尋ねて来た姉妹があり、その目的を果たせないまま妹はすげくぼで、姉のおたねはこの泉のほとりで亡くなったという話が伝わっている

 

 

問題76 道祖神は古来から民間信仰の対象であったが、安曇野に道祖神が多い理由の説明として適切でないものはどれか?

 

1 拾ヶ堰開削以降、生活が豊かになり、増産増収の願いの高まりとともに道祖神への信仰が深まった

2 材料となる花崗岩が烏川水系で得られ、また、梓川水系のものも得やすかった

 安曇野の石工の存在は勿論、有能な高遠石工が近世高遠領だった山形、朝日など比較的近くにいた

 松本藩が豊かになった安曇野の治安維持対策として道祖神の造立を積極的に進めた

 

私の解答  松本藩が豊かになった安曇野の治安維持対策として道祖神の造立を積極的に進めた

 

 

問題77 人々が信仰してきた道祖神は、ある仏様が神様の姿に形を変えて現れたものであるといわれている。道祖神と深いつながりのあるこの仏様は何という仏様か?

 

1 勢至菩薩

2 地蔵菩薩

 聖観音菩薩

 如意輪観音菩薩

 

私の解答 2 地蔵菩薩

 

 

問題78 安曇野では、道祖神と並んで多くの庚申塔を見ることが出来るが、庚申講で祀る仏様は?

 

1 青面金剛

2 不動明王

 愛染明王

 馬頭観音

 

私の解答 1 青面金剛

庚申講(庚申待ち)とは、道教に由来する人間の体内にいるという三虫という虫が、寝ている間に、天帝(道教における最高神)にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで、天帝や、神道の猿田彦や、仏教の青面金剛を祀って宴会などをする風習である。庚申講318回続けた記念に建立されるのが庚申塔といわれています。

 

 

問題79 豊科地域の成相・新田2地区で催される初市(飴市)、その際に行われる珍しい伝統行事があるが、それは何という行事か?

 

1 えびす様おっころがし

2 福俵曳き

 福だるま担ぎ

 道祖神担ぎ

 

私の解答 2 福俵曳き

 安曇野の初市(飴市)は、明治時代になって、松本に倣い始まりました。福俵曳きは、豊科の成相新田両地区に伝わる道祖神の行事です。17日に建てる道祖神御柱に付けられる「だし」と称する巨大な福俵を、小正月の115(年によってはその前後)の御柱倒しの後、外して町内を曳きまわします。途中人間ピラミッドなどの演技があり、最後に前年祝い事のあった家へ持ち込まれます。

 

 

問題80 堀金地域・岩原山神社の神様は、子宝の神として、ある変わったものが奉納される安産の神様であるが、奉納されるものは何は?

 

1 よだれかけ

2 穴のあいた皿

 底を抜いたひしゃく

 底を抜いた桶

 

私の解答  底を抜いたひしゃく

 

 

問題81 明治425月から火災で焼失するまで4年という短い期間であったが、官営の「明科製材所」が操業していた。長野県唯一の官営製材所が明科に設置された主たる理由の説明として適切でないものはどれか?

 

1 北アルプス一帯の国有林で伐採された材木を筏にして流し、集積するのに適した場所であった

2 他の候補地がいずれも山間部で、製材所として用意できる敷地が不十分であった

 明治35年に開設された明科駅が、材木集積地に近かった

 多数が候補地として名乗りをあげる中、地元の倉科多策ら多くの有力者の強力な誘致運動があった

 

私の解答 2 他の候補地がいずれも山間部で、製材所として用意できる敷地が不十分であった

 

 

問題82 明科廃寺跡は長野県内最古の寺院跡の一つと考えられているが、ここが寺院跡と考えられている理由は次のうちどれか?

 

1 建物の跡などから軒丸瓦や布目瓦が大量に出土した

2 溝で区画された中に古代の墓の跡がたくさん見つかった

 溝の中から寺の名前を記した木簡が出土した

 建物の跡から奈良時代の仏像が出土した

 

私の解答 1 建物の跡などから軒丸瓦や布目瓦が大量に出土した

 

 

問題83 三郷地域とその周辺に室町時代末まで実在した荘園は?

 

1 二木荘

2 住吉荘

 小倉荘

 長尾荘

 

私の解答 2 住吉荘

 

 

問題84 旧三郷村・小倉官林は大正9年から12年の歳月をかけて491町歩(491ha)が開墾されたが、昭和5年の頃、この開拓地において栽培されたもののうち、最も面積の大きかったものは?

 

1 大豆

2 たばこ

 そば

 桑

 

私の解答  桑

小倉地区でのりんご栽培は大正5年に始まりましたが、昭和初期はほとんどが養蚕のため、桑が圧倒的に多く栽培されていました。

 

 

 

問題85 槍ヶ岳開山を念願した修行僧播隆は、槍ヶ岳偵察登山をした際、岩小屋を発見し以後の登頂ルートの探索基地とした。この岩小屋は現存しているが、何と呼ばれているか?

 

1 坊主の岩小屋

2 播隆の岩小屋

 阿弥陀の岩小屋

 開山の岩小屋

 

私の解答 1 坊主の岩小屋

 播隆は、富山県で生まれ、29 歳、浄土宗の正式な僧となります。41 歳、松本の玄向寺を訪ねた後、小倉村を訪ね中田又重の案内で槍ヶ岳の偵察登山をします。これが初回の登山で、岩屋を発見し以後の登頂ルート探索の基地としました。これが、後年「坊主の岩小屋」といわれ現存しています。回目は十畳にも満たない山頂に小さな岩の祠を築き、三体の仏像を安置、槍ヶ岳開山です。回目にわらの綱を設置し、回向柱と本尊を結ぶ綱に因み「善の綱」と名づけます。回目は「善の綱」を鉄鎖にし末長く誰にでも開かれた山にしたいと願いますが大雪で失敗。その後、信者らによって鉄鎖がかけられ大願成就しました。

 

 

問題86 安曇野の道祖神の特色として双体像が多く見受けられるが、双体像の中で最も多く採り入れられた形態はどれか?

 

1 酒器像

2 握手像

 笏軸(しゃくじく)

 笏扇(しゃくせん)

 

私の解答 2 握手像

 安曇野の道祖神の特色は双体像が多いことですが、双体像の中でも最も多いのは握手像です。像容は男女が握手をしていて、肩を抱く肩抱握手像も多いです。次に多いのは酒器像(男女二神が結婚に不可欠な三三九度の酒器をもつ)ですが、笏軸像(平安貴族の衣冠束帯の男神が笏を、十二単の女神が巻物をもつ)や、笏扇像(男神が笏を、女神が扇をもつ)はかなり稀です。

 

 

問題87 江戸後期、南小倉(三郷地域)に生まれ、槍ヶ岳開山を念願する播隆の片腕として、開山実現の大きな力となり、また飛騨への新道(飛州新道)開削、開通に大きく貢献した人物は?

 

1 務台伴語(ばんご)

2 中村英碩(えいせき)

 松岡平臣(へいしん)

 中田又重(またじゅう)

 

私の解答  中田又重(またじゅう)

中田又重は、三郷南小倉に生まれました。飛騨への新道開削の実務担当者となり、開削着工から16年目に飛州新道が完成します。播隆から槍ヶ岳開山の念願を聞いて、槍ヶ岳登山の案内を一切引き受け、全5回播隆を案内しています。播隆の片腕となって働き、播隆が槍ヶ岳開山の念願を成し遂げ得たのは又重の力によるものでありました。

 

 

問題88 一日市場(三郷地域)に生まれ、信濃鉄道(現大糸線)松本〜大町間の開通を実現させた最大の功労者であり、また中房温泉の6代目でもあった人物は?

 

1 百瀬豊三郎

2 百瀬謙三

 百瀬亥三松(いさまつ)

 百瀬茂八郎(もはちろう)

 

私の解答  百瀬亥三松(いさまつ)

 百瀬亥三松は、三郷一日市場に生まれました。明盛村長、続いて長野県会議員となり、その間、梓銀行頭取、安曇電気株式会社の取締役にも就任しました。明治43 年松本〜大町間に鉄道敷設の議が起こり、国庫補助金を得て起工する計画を立てます。これに対して、馬車業者や北安の有力者の反対運動がありましたが東奔西走して説得に努め、大正4 1 月松本〜豊科間が開通、翌5 年大町まで、信濃鉄道を開通させました。また、百瀬茂八郎が開湯した中房温泉の6代目として経営に尽力し、登山道の改修や山小屋施設の増設改良にもつとめました。

 

 

問題89 1835年、当時の新田村(豊科地域)に生まれた安曇野近代教育の先駆者藤森桂谷(けいこく)は多才の人であったが、次の中で、彼の残した業績にないものはどれか?

 

1 私塾「実践社」の開設

2 有明山神社里宮の建設・復興

 文人画家として多くの作品を残す

 豊科という村名(当時)の発案

 

私の解答 2 有明山神社里宮の建設・復興

藤森桂谷は、豊科新田に生まれ、若い頃より、漢学・和歌・絵画を学びました。明治4年、私財を投じて法蔵寺境内に私塾「実践社」を開設しました。これがのちに、成新学校、豊科学校へと発展していきます。豊科村議会議員(副議長)、長野県議会議員も歴任していますが、明治7年に発足した豊科村の村名を、鳥羽・吉野・新田・成相の頭文字から発案しています。文人画家としては、書・詩・画が三位一体になった文人画(南画)400点以上残しています。

有明山神社里宮建設・復興を行なったのは、豊科寺所に生まれた岡村阜一です。

 

 

問題90 1894年、豊科村新田に生まれたドイツ文学者であり、詩人でもあり、また童謡「めえめえ児山羊」の作詞者でもある人物は?

 

1 藤森秀夫

2 堀口大学

 吉丸一昌

 尾崎喜八

 

私の解答 1 藤森秀夫

 藤森秀夫は、豊科新田に生まれました。松本中学校(現松本深志高校)、東京帝国大学文学部ドイツ文学科を卒業し、後に金沢大学教授となります。金沢大学退官後は、早稲田大学・明治大学でも教壇に立ちました。ゲーテとハイネの研究の権威者となり、「めえめえ児山羊」等の民謡・童謡を和訳し、今も全国の少年・少女たちに歌われています。

 

 

問題91 安曇野市名誉市民である社会派映画監督の熊井啓は多くの傑作映画を残しているが、彼の映画作品の中で、最大のヒットとなった作品は?

 

1 帝銀事件 死刑囚

2 黒部の太陽

 忍ぶ川

 天平の甍(いらか)

 

私の解答 2 黒部の太陽

 熊井啓は、豊科吉野に生まれ6年余を過ごし、松本市に移住します。松本中学校(現松本深志高校)を経て、旧制松本高等学校文科に入学、信州大学文理学部を卒業しました。在学中演劇部で演出をし多数の公演をし、卒業後に映画界入りしました。1964年、映画「帝銀事件・死刑囚」で監督デビューし、翌年には映画「日本列島」が、日本映画協会新人賞を受賞しました。1968年、映画「黒部の太陽」が空前の大ヒット、1年間で7337,000人もの観客動員がありました。2001年、松本サリン事件を題材にした衝撃作映画「日本の黒い夏−冤罪−」を制作。2007年死去。

 

 

問題92 (ぬる)堰の用水分配方法は、嘉永6(1853)、分水(上流の堰が揚口(あげくち)の流入量を制限して下流へ融通)方式から、流す時間を上流と下流で完全に分ける方式に変わり、やがてこの方式が慣例化していった。分水方式に対してこの方式を何というか?

 

1 時水

2 別れ水

 番水

 上下分け

 

私の解答  番水

 6:00AM10:00AMは上流、10:00AM〜日の出までは下流と分配しました。

 

 

問題93 リンゴの中産地として全国的に有名になった安曇野であるが、小倉地区の場合、リンゴ栽培が始まったのはいつからか?

 

1 明治45

2 大正5

 大正10

 昭和5

 

私の解答 2 大正5

小倉地区でのリンゴ栽培は大正5年に始まりました。昭和初期には、農家を支えていた養蚕業の不況で養蚕からリンゴ栽培への転換が急激に進みます。そして昭和10年頃には、長野県の指導で先進地:青森の品種である紅玉や国光が栽培され、小倉や梓川の山麓地帯にリンゴが普及します。昭和46年、かんがい施設が整備されることにより、リンゴの栽培熱は一挙に高まります。それまで、リンゴの木は5mを超えるような大木でしたが、梓川小室の果樹研究会が「わい化試験圃場」を設置し、2.5m程度の低木化を図り、昭和50年頃には、安曇野のリンゴ園はすべて「わい化栽培」となり、昭和56年にはリンゴ栽培が米作を上回ります。昭和59年、安曇野のリンゴは日本農業賞天皇杯という最高の栄誉を獲得し、以来、量・質とも全国有数のリンゴ産地へと発展しました。

 

 

問題94 貞享騒動が起きた頃に作られていた米には、籾に長いノギ(モミの先から出ている鋭い毛)が付いているという大きな特徴があったが、この籾は何と呼ばれたか?

 

1 ふくれ籾

2 のぎなが籾

 こぼれ籾

 あばれ籾

 

私の解答  こぼれ籾

 安曇野で栽培されていたこぼれ籾は、長いノギが付いているという特徴があり、松本藩では、このノギを取り除いて納めなければなりませんでした。このノギを取り除くには、新しいワラジを履いて踏みつけるノギ踏みという、他藩にはない余分な労力を農民に強いるものでした。

 

 

問題95 明治31(1898)、穂高の地に誕生した私塾「研成義塾」は、清沢(きよし)など多くの人材を輩出しているが、この塾を開設した教育者は?

 

1 高島章貞(しょうてい)

2 井口喜源治(きげんじ)

 相馬安兵衛

 臼井喜代(きよ)

 

私の解答 2 井口喜源治(きげんじ)

井口喜源治は、穂高等々力町に生まれました。東穂高矢原の研成学校に入学し、同年輩の相馬愛蔵と親しく学びました。松本中学校(現松本深志高校)を経て、明治法律学校(現明治大学)に2年間通い中退。東穂高村高等小学校に勤務し、また、相馬愛蔵らと共に東穂高禁酒会を組織し、キリスト教の伝導、芸妓置屋設置の反対運動等の活動をしました。明治31(1898)11月には、相馬愛蔵の父である相馬安兵衛・臼井喜代等の有力者の賛助を得て、私塾「研成義塾」が発足し、内村鑑三の影響による無教会キリスト教主義の人格主義教育によって、生徒を引っ張っていきました。後に師弟の荻原碌山・清沢洌等を米国へ送り出しました。

 

 

問題96 大正8(1919)、当時の小倉村村長に就任し、小倉官林開墾事業を中心となって進め、簡易水道施設、黒沢川架橋などの成果もあげた人物は?

 

1 植原悦二郎

2 三村惣平(そうへい)

 二木柄伍(へいご)

 降幡数太郎

 

私の解答  降幡数太郎

降幡数太郎は、三郷南小倉に生まれました。小倉村役場書記・助役を経て、郡会議員に当選、2期8年間勤めました。大正8(1919)、黒沢電気会社を創設し、同時期に発足した安曇電気株式会社と折衝して発電を開始し、小倉に電気を供給し電灯が点灯するようになりました。同年に小倉村長に就任。小倉官林開墾事業の管理者となって全責任を持って指揮し、昭和6年完了しました。大正11年、小倉開墾地に簡易水道設置し全戸給水。昭和3年、黒沢川に2ヶ所架橋工事竣工。また、小学校校舎の統合、教員住宅・役場庁舎の改築、小倉地区に郵便局を開局等、村政に大きく貢献しました。

 

 

問題97 穂高出身の相馬愛蔵とその妻である良(りょう)が、明治31(1901)、東京に開いた菓子店は斬新な経営で大繁盛し、またサロンとしてわが国の文化の発展に大きく貢献した。この店の名は?

 

1 白金屋

2 穂高堂

 中村屋

 相馬堂

 

私の解答  中村屋

相馬愛蔵は、穂高白金に生まれました。松本中学校(現松本深志高校)を中退し、東京専門学校(現早稲田大学)を卒業後、郷里に帰り養蚕の研究に没頭するだけでなく、東穂高禁酒会を組織し、キリスト教の伝導、芸妓置屋設置の反対運動等の活動をしました。明治31(1898)、良と知りあい結婚。明治34(1901)、上京して、本郷の中村屋を譲り受けてパン屋を開業、その後クリームパンを日本で初めて発売しました。明治40(1907)、新宿で中村屋を開業し、中華饅頭、月餅等次々に新製品を発売しました。愛蔵は店の裏にアトリエをつくり、荻原碌山中村彝らの芸術家たちに使わせていましたが、ここにインドの独立運動の志士:ビハリ・ボースをかくまい、長女がボースと結婚した縁により、中村屋は日本で初めてインド式カレーライスを発売することになりました。

 なお問題文では、明治31(1901)となっていますが、明治34年の間違いです。

 

 

問題98 明治初期、穂高出身の松沢求策は自由民権運動のリーダーとして国会開設の実現に大きな貢献をした。求策等の運動はある主張を伴ったもので、他の運動家と一線を画す説得力を持っていた。この「ある主張」とはどういうものか?

 

1 治安維持法の撤廃

2 不平等条約の撤廃

 請願権

 選挙権

 

私の解答  請願権

 松沢求策は、穂高等々力町に生まれました。明治10年代は自由民権運動という運動が華々しく繰り拡げられました。全国から多くの国民が東京にやってきて、政府に国会を開けと要求をしたのですが、その運動をリードしたのが、長野県の代表だった松沢求策でした。松沢たちの運動はほかの運動とちがって、もともと国民が持っている請願権という権利を政府に認めさせながら国会を開かせようという、難しいが筋の通った運動でしたので、多くの国民を奮い立たせ、運動を全国的なものに盛り上げ成功させるのに大きく貢献をしました。

 

 

問題99 天平宝字8(764)、安曇郡前科郷から朝廷に税のひとつ(調)として納められた、墨書銘のある布袴(ぬのばかま)が残っているが、この布袴はどこに保存されているか?

 

1 正倉院

2 奈良国立博物館

 穂高神社

 法隆寺

 

私の解答 1 正倉院

 東大寺正倉院所在の調布に「信濃国安曇郡前科(さきしな)郷戸(へぬし)安曇部真羊・・・・天平宝字八年十月」とあります。

 

 

問題100 明科出身の安曇野市名誉市民、青木祥二郎はどのような業績を残した人物か?

 

1 安曇野市のニジマス養殖の礎を築いた

2 重要無形文化財保持者(総合指定)の能楽師。明科で開催される薪能のきっかけを作った

 漆芸家、文化勲章を受賞

 高山蝶の生態研究に情熱を傾けた山岳写真家

 

私の解答 2 重要無形文化財保持者(総合指定)の能楽師。明科で開催される薪能のきっかけを作った

 青木祥二郎は、明科中川手に生まれ本名は匡(ただし)と言いました。小学校卒業と同時に郷里を出て能楽の道に入り、昭和17(1942)、「観世流師範」の免許を許されました。昭和53(1978)、重要無形文化財保持者(総合指定)の指定を受けました。明科で行われている薪能に出演し、地域の芸術文化の振興にも大きな功績を残しました。

文化勲章を受賞した漆芸家は橋節郎、高山蝶の生態研究に情熱を傾けた山岳写真家は田淵行男です。

 

 

参考資料:安曇野市ホームページ

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