多田加助
貞享騒動 松本藩の年貢は籾(もみ)年貢であり、1俵につき玄米2斗5升挽き(玄米が2斗5升になるように籾を納めた。籾5斗を入れて1俵にすることになる。1斗=10升)であった。元和3年(1617年)、松本藩領から分かれた高遠(たかとう)領(通称西五千石)や、諏訪領(通称東五千石)の村々は、その当時のまま1俵につき玄米2斗5升挽きであったが、松本藩ではその後3斗挽き(玄米で3斗=籾で5斗3升)に引き上げられ、農民は仕方なく耐えていた。 延宝年間の頃からは自然災害も多く、しばしば凶作が続いて困窮を極めていた。特に延宝3年(1675年)の大飢饉では、凶作と疫病流行のため、松本領内総人口90,296人のうち、餓死者2,856人、病死者1,267人もあり、農村の疲弊ははなはだしいものがあった。今でこそ米は主食だが、当時の農民の米作りは、食べるためや好きで作るものではなく、年貢を納めるためのもので、農民は正月の3日間とお祭、お盆、その他の祝い事の時のみしか食べられなかったという。 貞享3年(1686年)は、1・2月に大雪が降ったので、5月は雪解けと大雨で水害が多く、また山際の田の水は冷たいので稲も苗も育たない。そこへ加えて7・8月は雨ばかり続いて気温が低く、ほとんど満足に日の照る夏らしい日がなく、地震も多かったという。そんな凶作が目に見えてきていた頃、松本藩は藩の経理を保持しようと、のぎ踏磨きと3斗4〜5升挽き(玄米で3斗4〜5升=籾で5斗8升)の増税を命じた。 熊野神社 このような過酷な年貢に苦しむのを見るに忍びず、身を挺して農民を救おうと、中萱村の庄屋 多田加助を首領とする同志は、10月10日夜、中萱の権現の森(熊野神社)に集まって密議し、高遠領や諏訪領の両五千石並みである、2斗5升挽きの要求など5か条の訴状をしたため、14日郡奉行(こおりぶぎょう)へ訴え出た。本来、農民の藩への訴えは、庄屋→組手代→代官→郡奉行→家老→藩主へと手続きを踏むべきなのに、この手続きを守らなかったので、加助らはすでにそれぞれ妻を離別し、死をもって同胞の苦難に代わろうとする覚悟であった。この企てが村々へ伝わると、農民たちはこれに加勢しようと、蓑笠に身を固め、鋤(すき)鍬(くわ)を手に、四方から松本城下へと押し寄せた。 この時の藩主は水野忠直で、参勤交代で江戸詰めのため留守であった。狼狽した家老たちは、鎮圧するためいろいろな策を講じたが農民は聞き入れず、日増しにその数は増加してさらに衆の大喚声は高まるばかりであった。その数は1万に及んだという。 困惑した藩側は16日夜、郡奉行名で、年貢は従来どおり3斗挽きでよく、のぎ踏磨きは無用、など願いを聞き届ける旨の覚書を組手代へ届けた。これを知らされた農民の大半は喜んで村々へ引き上げた。しかし加助ら同志は、あくまで2斗5升挽きの要求と家老の証文を求め、引き下がろうとしなかった。 家老らは騒動の長引くのと、江戸の幕府への直訴を恐れて、18日に2斗5升挽きをも聞き届ける旨の家老連判の覚書書を出したので、一同は大いに喜び地に伏してむせび泣き、何度も松本城を拝んだほどだった。加助ら同志と留まっていた農民は、一応安堵して村々へ引き上げ騒動は鎮まった。
第6回全国義民サミット第12回全国義民顕彰集会
平成14年11月16・17日、第6回全国義民サミットが三郷村(当時)で、平成21年11月1日、第12回全国義民顕彰集会が安曇野市にて行われました。 過去の開催は、
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