「俺、一体何が一体どうなってんのか全然わかんないんだけど」
「伊武も?実は俺も。あんな取り乱した千石さんもあんな跡部さんも俺はじめて見たよ」

所長室でのあの一件は、その直後事務所に現れた橘と手塚によって一応終わりを見せた。
跡部は相変わらず沈んだままで宍戸とともに恐らく処置室へ向かったのだろう。
千石はあの後ズルズルと同じように床の上に座り込んでしまい、跡部同様どこか沈みきったままの状態になり。
つい先ほど橘に支えられるようにしてふらっと事務所を後にした。
あの二人が何処へ向かったのかは誰も知らない。
もしかすると手塚あたりなら知っているのかもしれないが、手塚は所長室に篭ったまま出てこない。
先ほどまで所長室を取り巻いていたほかの連中はというと、どこか気が抜けたというか信じられない光景を見たというか。
ただ言えるのは誰も自分の仕事に気が入らない、ということだ。
あまり口を開くものはいない。

がいない。

それだけでも十分執務室の中は緊張感いっぱいで、誰も口を開こうとしなかったのに。

ここにはいないに謝り続ける跡部と普段からだと考えられないくらい取り乱した千石。

口を開いてはいけない、そんな雰囲気になってしまっているのだ。
あの五月蝿い忍足だって自分の研究室に引きこもってしまった。
実際こうやって口を開いてる二年生グループは執務室ではなくわざわざ屋上にでてきて喋っている。
屋上にいれば誰に聞こえる事もない、そう思っていても皆自然と声のトーンは落ちている。

「オセだったか?壇の奴がかなり怯えていたな」
「オセって名前、聞いた事あるか?」

裕太が確かめるかのように皆の顔を覗く。
しかし誰も知らないか首を横に振るか黙っているかだけ。
そんな同僚の姿を見て裕太も困ったようにフゥとため息を一つこぼす。

「オセってのは、地獄大総裁で魔界の公爵の名前だ。召抱えている旅団の数もかなり大きかったと思う」

皆の頭上からそんな声が影と一緒に落とされてきて、皆が一斉に顔をあげるとそこには相変わらずの逆光で眼鏡をきらりと光らせている乾の姿があった。
乾は、悪いねと言って許可を得ることなく裕太と海堂の間に腰をおろしたが、誰も咎めるものはいない。

「地獄の大総裁…太一があんなふうに怯えるってことは尋常じゃない強さってことですよね」
「そうだね。にしてもみんなこんなところでさっきの話をしていたのか」
「はい…執務室にいたらなんだか俺達も苦しくなりそうで…」

鳳が困ったように言うと乾は苦笑いというのだろうか、俺もそうだ、といって首をゴキっとならした。
執務室でもないのに再びメンバーの間に沈黙が落ちる。
その沈黙の空間を壊したのは鳳の悲しげな呟きだった。

「――、大丈夫かな」

太一が怯えるほどの、そんなとんでもないやつに連れて行かれた
の実力は知ってる。
知ってたけれど、跡部が敵うことなく戻ってきた。
嫌な考えが浮かび上がってもしょうがない。
違う、絶対アイツなら大丈夫、そう思ってはいても信じる事はできないのだ。







なら大丈夫だ」







その声に皆がすっと顔をあげる。
さっきから一言も喋らなかったのに、今、初めて口を開いた神尾に皆の視線が集まる。

「なんの根拠があるってんだ、リズム野郎が」
「うっせー。俺はお前と違って信じてんだよ、なら、アイツなら絶対帰ってくるってな」

ギッと神尾が海堂にきつい視線をよこす。
お前は違うのか?まるでそんな風に。

「根拠だってある」
「――なに?」

神尾の言葉はまるで少し皆の不安を取り除くかのように、皆の中に落ちていった。
伊武は相変わらず表情が変わらないけれど神尾から視線を外さない。
海堂は勿論裕太や鳳も同じように、そして乾でさえもどこか驚いたように神尾に顔を向けている。
眉をひそめたまま口元に丸く握り締めた拳をコツコツとあてながら神尾はなにか思い出しながらだからなのか途切れ途切れに話しはじめる。

「俺がこの事務所に入った時から二ヶ月程前にもなにか大きな事件があったらしいんだよ」
「神尾が入る前?このメンバーの中じゃ神尾がまだ一番古いから俺達にはそのなにかがわからないな」
「あの時もが関係してて、それで、しばらく事務所に来なかった時期があった。俺が入ったとき、ちょうどアイツが復帰して1週間くらいだったらしいんだよ、そうだ!」

頭の中のパズルを正しい場所に当てはめるかのごとく、神尾の言葉は途中よく意味のわからないものもあったが大体は把握することができる。

「確かあの時はまだ越前さんがいて、それで、……なんだったっけ、……カマ…カマ…」
「それがが無事だってのとどう関係してるんだ?」
「あの時もの奴、魔界の事で巻き込まれてたんだったと思う。竜崎先生と越前さんがアシュタロトがどう、とかって言ってたのを聞いた」
「アシュタロト?それは、不二が契約してる魔界の大公爵の名前じゃ」
「だから、多分アシュタロトって奴が助けてくれたんじゃないかと思うんだ。オセって奴よりもアシュタロトのほうが上だって言うし」

な?とばかりに神尾が明るい声をだす。
そうだ、とばかりに皆が思い出す。
事務所には魔界四大実力者が一人、アシュタロトと契約を交わしている人間がいたのだ。
オセは恐らく、いや確実にアシュタロトよりも実力は下なのだろう。
不二がいる限り、アシュタロトがいる限り。

は帰ってくる!!!



























―――なのに

「神尾、それちょっとおかしいかもしれない」

折角ぬぐわれた不安の影が再びみんなを覆い始める。

「神尾、お前入ったのいつだ?」
「俺?ちょうど事務所ができてから1年ちょい過ぎくらいだったかなぁ」

神尾がそれがどうしたとばかりにかえす。
ただ一人眉をひそめ、指でなにか数えながら考え込んでいた裕太はすっと顔を上げて。

「やっぱりそれだとおかしい」

そうはっきりと言った。

「何がおかしいんだ?」
「一年ちょい前にお前が入ってその二ヶ月ほど前にその事件が起きた。それは合ってるんだろ?」
「え?あ、あぁ、うん」
「その時竜崎先生たちがアシュタロトがどうとかの話をしてた―――」

確かめるように言葉をもらす裕太に、そうだよ、とばかりに神尾が頷く。
折角希望がもてたのに。
お前は一体何を言うつもりなんだよ、裕太。
裕太以外みんなそう思ってるのかもしれない。
かくいう当事者の裕太だってできるならアシュタロトが、兄貴がを助けてくれるって信じたい。
実際きっと今は、今回はは助けられるだろう。
でも。

「―――神尾の話、疑問を残しただけだ」
「どういうことだ、裕太君。詳しく言ってくれないか?」
「つまり神尾は兄貴がその時もアシュタロトなりなんなりでの奴を助けたか、なんかしたんだって言いたいんだろう?」
「そうだ、実際の奴大怪我大怪したって聞いたんだぜ?」
「その事件があったのはちょうど事務所ができてから一年経とうとしてたかしてないかくらい」













「兄貴、その時まだ、アシュタロトと契約してない。それどころか―――」































「不二か?話は既に耳に入っていると思うが」
『はい、聞きました。恐らくこればっかりは僕でも手が出せないので、アシュタロトが既に向かってると思います』
「そうか。何か動きがあれば連絡をくれるか?こっちも、その、な?」
『千石が暴れでもしましたか?』
「あぁ。なんというかあの時の事を少し思い出してしまったな。跡部も、千石も、橘も、手塚も、幸村も。あの時のようだ――」
『先生、あの時とは違います。少なくとも僕は違う、僕はッ!!』
「わかっておる、わかっておるよ。あぁ、榊が仕事を切り上げて事務所に来ると言っておった」
『そうですか。僕もすぐに東京行きの飛行機に乗ります。なにかわかったことがあれば連絡いれます』
「あぁ、そうしてくれ」
『はい、わかりました』
「………」
『先生?竜崎先生?』
「―――なぁ、不二。お前は、後悔していないか?今更だとはわかっているのだがッ…無性にアンタにそう聞きたくなるよ」
『ふふ、先生やだなぁ』







『後悔なんて、あのときから。今も、ずっとしてますよ』








ふがいない自分自身に―――