歌が聞こえる。
―――歌?
ほら、とっても懐かしい。
―――懐かしい?
よく小さい時に歌ってもらったじゃない。
―――誰に?
覚えていないの?何もかも忘れてしまった?
―――忘れる?一体何を忘れたというの?
ならばどうか今のままで……
―――今のまま…私は…
そう、それでいいの。あなたはそれでいい。
―――あなたは誰?私は一体……
さぁ、もう少しお眠りなさい。次に目が覚めたとき、あなたは何も覚えていない。
そう、あなたはなのだから
「♪〜♪♪〜〜〜♪〜♪〜♪♪〜」
「シルヴィエッタ」
「♪〜…あら、アシュタロト様」
白銀の髪を後ろになびかせている女が自分の名前を主に呼ばれ口ずさんでいた歌をとめる。
部屋にはいってきた男はこの館の主、アシュタロト、俗に言う魔界の大公爵である。
アシュタロトはシルヴィエッタと呼んだ女の伸ばされた手の先にいる人物を見て少し表情を和らげる。
「どうだ?調子は」
「えぇえぇ、ぐっすりと眠ってらっしゃいますよ。恐らくあと2,3時間で目を覚ますはずです」
「そうか、体の方は何もなかったか?」
「えぇ、一応拝見させていただきましたが問題は何もございませんでしたよ」
シルヴィエッタはうっすらと微笑んでアシュタロトに顔を向ける。
彼女の手の先はずっとベッドの上の人物、の額にかざされており、時々いとおしそうにその額や頭、顔を撫でている。
そんなシルヴィエッタの姿をアシュタロトはどこか懐かしむような目で見つめると、すぐに指を鳴らしなにもない空間から椅子を取り出した。
シルヴィエッタとは反対側のベッドの傍に椅子を置き腰を下ろす。
いつのまにかシルヴィエッタの歌が再び部屋の中に流れ始めている。
シルヴィエッタは今でこそまるで人間の女のような姿をしているが、これでもアシュタロトよりも年老いたハーピー魔女である。
ハーピー族とは胸から上が人間の顔をし、胸より下は鳥の姿をした魔族のことである。
人の世界に伝わる古き歌『神曲』では、ハーピーは「自殺者の森」において、自ら命を絶った者が変容した樹木を啄ばむ怪鳥として描かれているが実際そう伝えられているハーピーは初期の頃のハーピー一族である。
魔界が魔界として存在するよりも以前に生きていたと呼ばれる古代魔族。
今現在生きているハーピー一族はその子孫であり、今ではすっかり知能もついた有名な一族である。
しかしハーピー一族は魔界が誕生する際にほとんどが死滅し、今では数えるほどしかハーピー魔族はいない。
シルヴィエッタもそのハーピー一族の一人で、彼女はアシュタロトの父親が生きている頃から使えている古参の魔女なのである。
「グロリエルの子守唄か…」
静かな部屋に流れる歌声は、アシュタロトにはとてもとても懐かしい曲である。
乳母のような存在だったシルヴィエッタにはまだ小さな頃幾度も聞かされた曲なのだから。
ハーピーの魔力が込められたその歌は古代の魔族語で、恐らく今魔界に生きている魔族でその意味を解するものはほとんどいないはずである。
魔界創世紀より生きているベルゼブブやバールならともかく。
―――トントン
一つしかない部屋の扉を小さく叩く音が響く。
その音に気付いたシルヴィエッタの心地よい歌が終わりを告げ、代わりにアシュタロトの「入れ」という言葉が響く。
「不二様には連絡がつきましたので、様の無事をお伝えしておきました」
姿が犬に非常に似ている(けれどもぐるぐると大きい目や服をきているところは全く犬とはいえない)ラウムがちょこんと頭をさげて部屋の中に入ってくる。
覚えているどうかはわからないがオセの作り出した空間からを連れ出したのはこのラウムである。
仲間の魔族からはしばしば「犬」とあだ名されているラウムだが、アシュタロトの信頼は非常にあつい魔族である。
「そうか、しばらく預かる事も言っておいたか?」
「はい、伝えておきました。よろしくお願いしますと伝言承ってますよ」
わかった、とばかりに右手を軽くふるとラウムは了解したとばかりに再びちょこんと頭をさげ部屋を出て行く。
パタパタと足音がようやく聞こえなくなって、部屋の中に再びシルヴィエッタの歌声が静かに静かに流れ出した。
懐かしいのは、シルヴィエッタの曲?
―――それとも?