実のところを言うと、そのときの記憶はほとんどない。
あやふやというのだろうか。
白と赤。
二つの色が俺を支配して、そしてその後はただ闇一色だった。
それでも何かしら動けたのは、俺の目の前にいた綾子の存在、ただそれだけだった。
本当に我に返ったのは、少し遠くにある貯水湖の前に立った時だった。
綾子と二人、大きなビニール袋に包んだ何かを誰も通る事のないような山の中の貯水湖に落としたような記憶というか、感覚が残っていた。
多分、無我夢中で俺のアパートで綾子の叔父の死体をゴミ袋で包んでその貯水湖まで車で運び捨てたんだろう。
そこからは、逃亡劇だった。
綾子の実家には帰れなかった。
従兄弟は上京して家にいないといえども、叔母はまだ旅先にいるだけで家にいつかは帰ってくるのだ。
叔父がいないという事は、いつかはばれることだった。
かといって俺も自分のアパートに留まることができなかった。
どんなにカッとなったからといって、自分の手で誰かを殺してしまった、そんな部屋に住むことはできなかった。
その後は二人で何もかもから逃げるようにして車に乗り込んだ。
俺を追いかけるものは、闇と紅色だった。
綾子を追いかけるものは、闇と叔父だった。
「その叔父さんは本当に死んでいましたか?」
「おそらく…貯水湖に捨てるまで、彼は一度も動く事はなかったし段々と冷たくなっていってたのを覚えている」
「その貯水湖まで山崎さんのアパートからどのくらい?」
「はっきりとは覚えていない。ただ、帰る際見たことのない場所を通った記憶があるからかなり離れた場所だと思う。何もない山の中だった…」
伊藤さんのミニには今五人の人間が乗り込んでいる。
運転席に伊藤さん、助手席に不二、後部座席に私と山崎さん、そしていまだ気を失ったままの綾子さんの三人。
体格的にみても、車の大きさ的に見ても、不二と山崎さんが交代してくれれば大分私も楽な姿勢で座ってられるはずなんだけど。
まぁ不二がそんな簡単に一人席を放棄するはずがないので、言う必要もない。
「青森からここまで来る経緯を簡単に説明していただけます?」
「わかった……」
その貯水湖からはハッキリ言えば宛てのない道のりだった。
ただあまり大きな道や町は通らないようにだけ気をつけていた。
県から県へまたがる際は山道を使う方が多かった。
不思議だったのは、あの貯水湖を出た2日後、通りがかったコンビニで新聞を購入したんだが、綾子の叔父が死亡したというニュースも行方不明だというニュースも載っていなかったことだった。
「俺も山崎から話を聞いて新聞やニュースを調べてみたが、その件の叔父に関するニュースは一つもなかった」
「綾子さんの叔母さんは既に家に帰っていらっしゃるんですよね?」
「らしいです、ですので叔父が家にいない事には気付いているはずなんですが…」
「……それから?」
それからは、ただ車に乗って逃走するだけでした。
確かちょうど三日後だったと思います、福島か新潟かは覚えていないんですが恐らくその辺りだったと思います。
山道というよりも、もはや峠といったほうがいいような道を雨の中走っていた。
回りもうっすらと暗くてヘッドライトをつけていたのも覚えている。
ぐねぐねとまわりくねっている坂道をひたすら走っていると、ふと何かが道路の上に突っ立っているのに気がついた。
ライトの中黒くうっすらと立ちはだかるものにクラクションを鳴らしましたが、立ち退く事もせず結局俺達の方が止まる事になりました。
どうやら雨の中立っていたのは傘も差さずにびしょぬれになっている人間のようでした。
こんな人が歩いてくるような場所でもない、車ですらあまり通らないこの場所に何故生身の人間が突っ立っているのか。
とにかく声をかけようかどうか迷った、立っている人間はちょうど体の左側を見せているだけで顔まではっきりと見えなかったから。
どうしたものかと助手席に座る綾子と顔を見合わせた。
―――けど、すぐに車の中に綾子の悲鳴が響き渡った。
フロントガラスに突如まるで蜘蛛のように張り付いた、先程目の前まで立っていた人間。
その顔は、俺がこの手で殺して、それから、あの貯水湖に捨てたはずの。
「綾子の叔父だったんだ」
ピピピピピピピピピピ………
静かな車内に突如鳴り出した携帯電話。
音の発信源は私のパーカーのポケット。
取り出して発信元を見てみれば、越前幽限事務所所長。
本当なら南次郎さんが相手な筈なんだけども、恐らく、いや確実に、相手は竜崎スミレだ。
けれど、今私も不二も外に出てると知ってる筈なのに一体どうしたというのだろう。
「はい、でーす」
『かい?不二もそこにいるかい?』
「不二?一緒にいますけど…」
首だけ後ろに向けてこっちを見ている不二と目が合う。
『落ち着いて聞きな。真田が襲われて病院に運ばれた』
これじゃない、これじゃない、これじゃない