6月2日 深夜









日付も変わろうかという時間帯に、赤澤吉朗は家から五分ほどの距離にあるコンビニに向かって自転車をこいでいた。
突然「アイスが食べたい」と言い始めた母親に父親と兄の二人は笑顔で「吉朗、お前が行って来い」と言ってのけたのだ。
赤澤家ピラミッド(別名:力関係がよくわかる表)の頂点にたつ母親の『お願い』を叶えるべく赤澤家ピラミッドの底辺にいる彼は愚痴一つ零すことなくただ黙ってそろそろと家を出て行った。
昨日まで二日ほど連続で雨が降っていたからか肌の上を通り過ぎていく風がどこか湿っているようにも感じられる。
住宅街の中一定間隔に立っている電信柱とあまり明るいとはいえない電灯の下を走りぬけしばらく自転車を走らせると少し広い道路にでる。
道路といっても今自転車を走らせている道の隣には川が流れていて適度に広い河川敷がその道下に広がっていて、人通りはほとんどない。。
河川敷にたどり着くには結構な高さのある土手を下りていかなければならないけれど、明るい日中はよく休日に草野球をする人たちで賑わっていて土手で遊ぶ子供達も多い。
時間が違うだけでこの川の近辺はガラリと変わる。
電灯が少ない事もあるのかもしれない、とにかく人通りも少ない事もあるからかどことなく不気味な感じがするのだ。
といっても色々と鈍い赤澤にしてみればどうとでもいいことであり、目下彼の使命は『母親の為にアイスを買う』、これだけだ。
纏わり憑くような空気もなんのその、自転車をただひたすらに漕いでいた赤澤は前方に広がるものに気付き突然ブレーキをかけて土手の上で自転車を止めてしまった。

(なんだ?あそこだけ、黒い?)

先へと続く川と河川敷と土手とそして道。
上に広がる空には星がチラホラ見受けられるが新月なのか月の姿はない。
それでもここは住宅街のはずれであってもそれなりに明るい。
しかし今赤澤の目の先には黒い黒い闇が渦巻くようにして存在していてまるで赤澤の行く手をふせいでいるかのようにも見える。

(あんまりいい感じはしない。物の怪の類か?)

ぐるぐると目の前で渦巻いていく闇にさすがの赤澤の眉もひそめられる。
いい感じがしないものから確実に己の仕事にひっかかるモノへと変わっていくのがわかる。

(だが、面倒くさい…)

基本的によっぽどのことがない限り自分から動く事はないのが赤澤吉朗という男である。
赤澤家は代々続く式(シキ)使いの家系ではあるが、赤澤の血が流れている人間が皆が皆、式を使えるというわけではない。
やはりいつの時代も式を使えるのは本家の人間で(たまに分家にも使える人間が現れるが200年に一人いるかいないかだ)、本家の中でも限られてくる。
今現在赤澤家の当主をつとめている彼の祖父は、次代当主として吉朗を推している。
祖父の息子、つまり吉朗にとっては父にあたる人間もそして兄もそれほど式使いとしての力が血に現れずがっかりしていたのだが次に生まれた吉朗には生まれたときから祖父以上の力を持っていたという。
これで赤澤家も安泰じゃと祖父が喜んでいたのもつかの間、確かに吉朗の力は本物で素晴らしかったのだが如何せん彼の性格に問題がありまくりで祖父は今まで何回いや何十回、いや何千回ため息をついてきたかわからないほどだった。
とにかく、面倒くさがりや、一言で表すならこの言葉が妥当だろう。
言い方をかえるならひどく老成しているのだ、早寝早起きだとかそういうのではなく言葉遣いとかではなく彼自身のもつものというのだろうか。

(放っておきたいのが正直なところだが、そうもいかない、よな?)

うーんとばかりに赤澤は視線をついっと闇の渦からはずし空をみあげた。
できる事ならば面倒な事は避けたい、いやできる事ならどころか避けて通れるものなら今すぐ避けたいというのが本音だ。
しかしここで何もしないで家に帰れば恐らくまた祖父のお説教と祖母の「なんて情けない!」なんていう涙ながらのお説教を食らうにちがいないのだ。
それならば、

(面倒くさいが片付けておくか…)

多少力を使ってでも説教される道だけは避けようかと思うのだ。



―――匂ウ



グルグルと渦巻いていた闇からニョキっと腕が突然生えたかのように現れる。
現れた腕は肌色のしなやかな腕などではなく、まるで指先が全て刃物なのではないかと思えるような鋭く長い指と手、人とは思えないほど隆々とした腕は肌色なんてものではなく明らかに青黒い人外の色だ。
それに一瞬ギョっとしたものの赤澤は現れてくるだろうモノへの警戒を強めるべくズボンのポケットから(こういう場所に式を締まっている事も祖父は気に食わないようだが)式を取り出すべく手を下へとのばす。
のばしたのだが、それよりも早く何かとてつもなく大きな衝撃が赤澤の腹を襲った。

「…ッ!!!」

うめき声をあげる間もなく口の中に鉄が錆びたような味が広がる。
自転車にいまだまたがっていた状態でなにかを食らったようで、衝撃で曲がったらしいハンドル部分が思い切り胸にぶち当たる。
ゴリッと何かが折れるような音が体の中から聞こえてくる。
真後ろに吹っ飛ばされるかと思っていた体は衝撃の影響か真後ろにではなく斜め後ろへと吹っ飛び。
続けざまに後頭部と肩に衝撃がはしった。

(な、なに…)

土手の上、しかも河川敷へと続くコンクリートでできた階段の上に落ちた赤澤の体は勢いよくそのまま自転車と絡んだまま転がり落ちていく。
体が回転するたびに体のあちこちに痛みが走るばかりではなく、自転車が自身の体に巻きついているかのようになっているため転がるたびにペダルやハンドルが胸や足を強打していくのだ。
ガンガンガンと4回ほど回転して落ち着いた場所に落ちたのか、赤澤の体はドシンと音を立てて河川敷に転がった。

(一体なん…だ……)

目を開けようとするものの右目の方は開けようとするとなにか液体のようなものが目の中にはいってこようとし開けられず、うっすらと左目を開けるだけで終わってしまう。
体の方はもっとひどくどこもかしこも痛いが特に胸と足の痛みが一番ひどく、ピクリとも動かす事ができない。
今も必死に保っている意識の方も下手をすればすぐにもっていかれそうなのだ。





―――匂いは近いのに、




赤澤の頭上から声が落ちてくる。
まるで人間の、いやこの世のものとは思えないような声だ。




―――匂いは近いが、お前じゃない




(匂い?なんの、こと、だ?)

自身の鼻は先ほどから鉄錆びのような匂いと草土の匂いしか嗅ぎ取れない。
顔の下に広がる土が何かによって湿っていくのがうっすらとわかるが、まさかそれが自分の頭の怪我から流れている血だとは思ってもいなかった。
それどころか赤澤はいまいち今の状況に頭がついていかない、何もかもが一瞬で、そして突然だった。




―――この間の人間と同じ。匂いが強くなっていく、この辺りということか




耳に入ってくる言葉が段々と小さくなっていく。
頭のすみっこのほうにキンキンに冷えた氷を押し付けられたような感触が走る。
必死に開いていた左目も段々と瞼が重くなっていく、視界にうつっていた地面と自生している草とそして誰かの足のようなモノがぼやけてくる。




―――この人間もそこそこうまそうだが、あのお方の目にとまるほどではない




何の話を、と。
ほとんど力の入らない口でかろうじて喋れたのはこの言葉だけだった。
ククク、と何かが笑う声とそして何かを言ったようだったがほとんど聞き取れなかった。
今はまだ、駄目だと言い聞かせても聞くことのできない体からそのまま静かに力が抜けていく。





―――お前には関係のないことよ、人間





そこで赤澤の記憶はぷつりときれる。