夕方にぽつりぽつりと雨が降っていたらしい。
今は雨など降っていないので傘もさすことなく外を歩いているがどことなく空気は湿っていて水分を含んだ土の匂いが手塚の鼻についた。
昼間は外に出ていたので雨が降っていないことを知っていたけれどちょうど夕方の頃は屋内で竜崎に手渡された依頼をこなしていたため、雨が降ったことなど気付きもしなかったのだ。
上を見上げればただ暗い夜空が広がっているだけだ、星も見えなければ月も見えない。
雲がかかっているのかと最初思いもしたが、すぐに暦を思い出してああ今日は三日月かとすぐに頭をもとにもどす。

赤澤が魔族に襲われたということで緊急招集が所員全員にかけられ滅多に事務所にこない越前さんの口から注意を促されたのがつい9時間ほど前のことだ。
さらにその二日前には仕事中にあの真田が襲われたという。
はっきりと同じ魔族だという確証はないものの、言葉の端々から先生達は同じ魔族だと踏んでいるらしい。



―――決して抗うな、逆らうな、手を出すな



越前さんはそういったものの一体いつどこで魔族なんぞに出会うというのか。
変わることのない表情で知れている手塚の眉間が寄せられる、元々寄っている眉間にもう一本皺がうっすらと加わった程度だが。
簡素な住宅街の中といえ家の明かりが道を照らし街灯の必要性が感じられない道を歩いていく、こんな場所で襲われる筈がないと思ってもいた。
魔族は残虐ではあるが賢さも上級になればなるほど兼ね備えていくという。
普通の人間、力もなにもないただの人間しかいないこの場所だが人目につくということは多分に考えられる。
だからこそ安心もしていたのだ。
最初は―――。

(手も出せないほどの上級魔族か、それとも只の知能指数の低い下級魔族か)

手塚の領域になにかがひっかっかった。
それはもういとも簡単に、手塚の領域になにものかが侵入してきたのだ。
自宅へと急いでいた足がぴたりと止まる、別にここで止める必要ない、もう少し先へ行けば空き地のような場所もあるのだ。
ただなんとなく手塚はひっかっかった侵入者が前者ではなく自分でも充分に抑えきれる後者だと、どことなくぼんやりわかっていた。
第六感とも違う、ただたんなる勘だったのかもしれない。

「誰だ」

車が通らないからか静かな空気のなかに手塚の声が響く。
家の明かりが漏れてたくさんの人間がいるはずなのにまるでそこには手塚しかいないような、そんな感覚だった。

「いるのはわかっている、姿を現せ」

ズズズズと後ろの空間が歪んでいくのが見ないでもわかる。
どんなに空間を操ろうとここは手塚の領域内だ、境界線を越えればそれだけで侵入者になる。

―――俺の姿に気付くとは、このような地でそんな人間がいるとは思わなかったぜ

ケケケケと気味の悪い声をあげながら一匹の妖怪、いや魔族が姿を現す。
それを見るなり手塚はため息を零さずにはいられなかった、いや実際にため息をしっかり零してはいたのだが。

「よっぽど頭の悪い悪魔らしい。下級も下級、使い魔もいいとこだな?」
『なにぃ!?人間の分際で生意気なッ!!』
「聞いておこう、何をしにきた?俺に何の用だ?」
『お前に話すことなんてないね、人間なんてせいぜい俺様に食われるくらいだろ。ケケケケケケ!!』

そういうや目の前の悪魔はバサッと背中にひろがる飾りではなかったらしい翼を広げる。
しかし手塚にしてみればそれさえもどこかこっけいにしか見えない。

「吼えるのだけは得意らしいな。お前が喋らないというのなら、喋らせるまでだ」

眼光鋭くそういうやいなや手塚は両手を組み臨兵闘者皆陣裂在前の声とともに素早く印をきっていく。
九字の印を空中できると同時に悪魔の体は硬直し、羽を動かす事ができなくなったせいかぼとりと地面に転がり落ちていく。
その情けない姿に情をうつらせることなどせず次々と印をきっていく手塚に、ようやく下級悪魔は目の前の人間が普通の、いや自分では敵わない類の人間だということに気付いた。
そして、

「オンアミリテイウンパッタ、オンシュチリキャラロハウンケンソワカ、オンアミリテイウンパッタ、オンシュチリキャラロハウンケンソワカ」

自分が目の前の人間を食い散らかすのではなく、自分が目の前の人間に消されるのだということにも。

『グ、グソ・・・・グソォォォォォォォォォォ!!人間が!人間野郎がぁ!!
「吐け、何をしに来た?」
『お前なんかに、お前なんかニィィィィ!!だれが言うかァァァァァァ!!!!』
「そうか」
『喋れば俺の命もなくなるだろうがァ!!』
「たいした忠義心だ。しかしどっちにしても俺に消されるわけだから同じだと思うが?」
『ほ・・・ざけぇェェェェェェ!!!

ギリギリとしめつけていく呪印にもがきながらも悪魔は決して肝心の言葉を吐かなかった。
それを見下ろしながら手塚は何度目になるのかわからないため息を再びこぼすと、静かに手を動かし最後の印をきった。

―――シュッ

それと同時に悪魔の体がぐしゃりと上からものすごい力がかかったかのようにつぶれる。





―――・・・・・リ・・・さま・・・・・ほう・・こく・・・・を・・・・





消え去る瞬間に入ってきた言葉を静かに取り出したメモちょうに書き記すと手塚は何もなかったかのように自宅にむかって歩き始めた。

「越前さん、手塚です。つい先ほど魔族に遭遇しました」

空はいまだ黒く広く。