みえない何かは確実に近づいてきている。

運命の歯車はとうに動き出した、止まることなくただひたすらに先へ先へと動き出している。

何が起こるのか見当もつかなければ思いつきもしない、ただ自分が確実に『歯車の一部』であることだけはわかっている。
あの人に言われたからではない、自分の意思だからだ。
を一人にしない、簡単なことのようでとても難しい。
彼女は事務所の中で誰よりも明るく誰にでも好かれる、幸村をはじめ彼女の傍にはいつも誰かがいる。
を一人にしない、それでいいと最初は思っていた。


「俺、何をするべきかもわかんなくて不安だけどそれ以上にっちが心配だよ。あとべぇ、っちどうしたんだろう」


一人にしない、その意味を間違えて理解していたのではと慈郎の膝の上で眠るの青白い顔を見つめながらふと思った。


「あとべぇ、っちがあんなに震えてたの、オレはじめて見たよ。途方に暮れて困ってるっちなんてはじめて見たよ」


一人にしない、榊先生と約束した。
一人にしない、
俺は慈郎の呟きにこたえを返さず窓の外を過ぎていく景色を睨みつけながら自分の拳を握り締めた。


みえない何かは確実に近づいてきている。
現実を目の当たりにして俺はようやく自分の立つべき場所とあり方、そしてこれからに不安を覚えだした。

















玄関のドアをあけて出迎えてくれた榊先生は俺の腕の中にいるを見て目を見開いた。
声をだすことはなかったがあの榊先生の表情が一瞬でも変わったことは本当に滅多にないことだったと思う。
眉をひそめた先生に対して、眠っているだけですと口を開く。
それを聞いてやはり安心したのだろう、そうかと呟いた先生は玄関のドアを更に大きく開き中に入るよう促してくる。
を腕に抱えたまま室内へお邪魔させてもらったところでの部屋にを運んでくれないかと頼まれる。
一応女の子の部屋ではあるが何度も叩き起こしたりだったり遊びにだったりでお邪魔しているので戸惑う事もなく、のカバー以外は女の子らしくないベッドに身体を横たわらせる。
結局は伊藤さんたちと別れてから一度も目覚めることなく、そして今も身じろぎ一つせず深い眠りにはいっている。
安らかな眠りではないのだと思う、あのが眉をひそめて眠っているのだから。
眉間によった皺を伸ばそうと自分の指をの額に寄せたが、そんなことしてもどうしようもないのだとすぐに離してしまう。

「跡部、今日はすまなかった。またこの子が君に迷惑をかけたのだろうか・・・」

背後から声をかけられて振り向けば部屋のドアのところで榊先生がトーンをおとした声でたずねてくる。
それに静かに首を横に振って部屋を出ましょうとだけ提案し、それもそうかとばかりに先生にリビングへと促される。
静かにパタンと小さく音を立ての部屋のドアを閉め、俺はおやすみと彼女にむかって心の中で呟いた。

「エスプレッソでいいか?」
「はい、ありがとうございます先生」

構わないといってキッチンへと先生が向かっている間に俺は今日のことを順番に思い返していく。
ガラスのローテーブルの上には先程までここに先生がいたのだろう、色々と書き込まれた楽譜の束が広がっている。
一番上にある楽譜の音符を一つずつ確かめていると曲の途中であるその楽譜は子犬のワルツの一部であることがわかる。
懐かしさに思わず紙面に向かって手を伸ばそうとしたもののタイミングよくカップ片手に現れた榊先生の姿を視界におさめつい手をひっこめてしまう。

「ああ、片付けていなくてすまない。今すぐ片付けよう」
「ああ、いえ、仕事中だったんですよね。こちらこそ忙しい時に申し訳ありませんでした」
「君が謝ることは何一つない、寧ろあんな状態のを抱えてきてくれたことに感謝している。ありがとう、あの子に変わって礼を述べさせてくれ」

そう言って頭をさげる先生の姿に慌てた俺は思わず腰をあげ、でもすぐにまたおろしてしまう。

「先生、それは俺じゃなくて慈郎に、芥川に言ってあげてください。のこと、今日はアイツが面倒みていたようなものだったので」
「そうか、なら芥川に会った時に言わせてもらおうか。まあそうでなくてもお前には色々と面倒をかけている、今日何があったのかはわからないがいつものことも含めてという事で受け取っておいてくれ。このエスプレッソもな」

差し出されたカップを受け取り小さく礼を述べる。
ローテーブルの上を軽く片付けた先生は俺がカップに口を付けたのを見てから俺の斜め前の一人掛けソファに深く腰を下ろし

「それで、何があった?」

単刀直入、俺の目を見て静かに尋ねてくる。
俺は何から言えばいいのかと一瞬口ごもるも今朝からのことではなく、そもそもの始まりだった6月1日のことから話し始めた。
と不二が請け負った依頼の内容については今日慈郎とが席を外していた間に伊藤さんから詳しい事を聞くことができた。
といってもその内容も彼、伊藤さんが知っている限りのことだ。
と不二が二人だけで山の中を彷徨っていた(人を探してとのことだったが)間のことや不死身だと思われた男が灰になったときの様子は詳しくは彼もわからないようだったので曖昧だ。
ただその後のの様子とと話を少ししたという慈郎の話から推測しての可能性の話は漠然とあり、そのことも先生に伝えるべきか悩んだのだが一言はっきりしたものではないとだけ告げてからその内容を伝える。
そして最後、帰りの道で出会ったあの気持ち悪いやつのことも。
話が進むにつれ先生の眉間に寄った皺が深くなっていくのに気付いてはいたが、先生から口を挟むことはなく淀みなく話は進んでいったと思う。
自分でも振り返りながらの話だったせいかとても長い、長い時間が経ったような気がして思わず残っていたエスプレッソを全て煽ったのだが、まだかなり熱く思わず舌にピリリと痛みが走る。
ようやく一息つけたとばかりに壁に掛かっている時計に目を向ければほとんど時間が経っていないことがわかり、ジンジンと熱さで痛みをもった舌に意識が向いてしまう。

は」
「・・・・」
は、俺に無理矢理話をさせられた時に聞き流してしまいそうなほど小さな声で、多分あれは独り言に近かったと思うんですが、言っていました。自分の中にある何かが動き出している気がすると」
「・・・・・・他に何かあの子は、自分のことに気付いているようなことがあったか?自分の事じゃなくてもいい、周りのことでもかまわない」

先生にそう言われて俺はここ2、3日のの様子を色々と思い返してみる。
一昨日のことはわからないが確かに様子がおかしくなったのは昨日からで、けれど特別自分のことでが気にしていたことと突然言われもなかなか思い出せない。
でもうっすら何かあった気がすると必死になって記憶を手繰っていると、ふと目の前に先生の両手が目に付いた。
シンプルなリングが一つだけはめられていて、それが照明の明かりをかすかに反射している。

「あ」

まったく形も大きさも違うリングだったのだがふとそれが一昨日の朝の車の中で見かけた、のリングと被さって見え

「先生に誕生日プレゼントでいただいたといっていたリングのことを、気にしていました」

やはりこれまたの独り言だったのだろう、小さな声が突然頭の中で思い返された。

「リングのことを?」
「ええ、お守り代わりと言っていたリングです。あいつ、リングの装飾部分をいじりながら多分独り言だったんだと思いますがこう言っていました、どこかで見たことがあるんだけど思い出せないって」




どこかで見たことがあるんだけどなァ、何て書いてあるのか思い出せないなァ




「てっきり装飾だと、ただの模様だと俺が思っていたのが文字だと、どこかの文字だとわかっているような独り言でした」




6月4日   End of the DAY