住みはじめて三年の我が家に違和感を感じたのはトイレの水を流すためのノズルをまわした瞬間だった。
ザーッと勢いよく水が流れる音となにか男の人の話し声のようなものが遠いながらに耳に入ってきたのだ。
これで壁の薄い安アパートに住んでいるとかならお隣さんなり上に住んでいる、もしくは下に住んでいる人なりの話し声か、もしくは彼らの部屋からのラジオもしくはテレビの音が漏れているのだろうと片付けられるのだが、如何せん、ここは元々私の家族がかなり前に住んでいたファミリータイプのマンション、しかも(親が)購入済み、でそんな安アパートなんかとは比べ物にならないのだ。
ベランダに出るだとか窓が開けっ放しだとか換気扇をガンガンに回しているとかいう状況じゃない限り、滅多に周りのお宅の声なんてのは聞こえてこない。
トイレのドアから顔をだし自分の家だというのにコソコソと誰もいないはずの廊下を見渡す。
やっぱり誰もいないよねと安心してドアの隙間から足を一歩踏み出したところで、やはり幻聴でもなんでもないのか男の声が耳に入ってくる。
なんでなんでと訳もわからず、足を一歩ドアの隙間から出した状態のまま聞こえてくる声に耳を傾ける。
なんだか声はくぐもっていてはっきりとは聞き取れないが、どうやら男の声、それから女の声も聞こえてくるようだ。

(寝てる間に壁が急に薄くなったとか?ありえんでしょ、それは。どこの妖精さんの仕業だっつの)

眉を寄せたまま自分の息をも殺す勢いで恐らく私一人だけがいる筈の家の中に耳を傾ける。

「こちらで………でしょうか?」
「あ………で頼む」
「………失礼致し………」

ぼそぼそと聞こえてくる会話はところどころが聞き取りにくくてわからなかった。
ところどころというよりも会話の内容がまったくつかめないことを考えればほとんどわからなかったと言ってもいいのかもしれない。

(変な会話…)

それでも女の人の声はやけに丁寧語で男の人は逆にざっくばらんとでもいえばいいのだろうか、あまり夫婦の会話には聞こえてこない。
そう、例えるならそれは

(上司と部下、もしくは秘書の会話っぽいよね)

耳をダンボにしたまま一人うんうんと頷く。
我ながら的確な答えっぷりだ。
ひとしきり二人の受け答えを聞いてハッと意識を戻す、気付けばかなりの時間をトイレの個室に篭っている。
別にトイレの中が臭いとかそういう訳ではないけれどやはりトイレに長い事いるのはどことなく気分をへこませる。

(別に私の家に人がいるわけじゃないしね、うん。大丈夫だ)

なにが大丈夫なんだかわからないけれどとりあえず自分を納得させ、うんうんとまた一人で頷いてようやくトイレから脱出する。
所詮マンションの廊下だ、広いわけでもない廊下に出てリビングへ向かって歩いていると今度は話し声ではなくガコンと大きな何かと何かがぶつかるような音が聞こえてきた。

「な、なに!?なにごと!?」

今の音は明らかに外からではなく我が家の中から聞こえてきた音だと気付き、一人狭い廊下のど真ん中で右往左往するかのごとく壁にへばりついて首を右に左にと振る。
首を伸ばして覗き込んだリビングには人の気配はしない。
さらにリビングの向こう側は私がさっきまで寝ていたマイルームがあるだけで、そこには勿論朝私が起きた時には人がいなかったから今もいないはずだ。
となると残るは、洗面所と廊下に面した大きなクローゼット、そして。

「客室…?」

玄関から一番近いところにあるほぼ私の物置と化している(一応)客室だ。
今私が立っている場所から3歩ほど歩けばその部屋のドアにたどり着く。

(どうする、私!どうする、私!?どうする、アイ○ル〜とかのジョークもいえないほど切羽詰ってるよ、私!!)

頭の中でクゥーンと鳴くつぶらな瞳の白犬がボワンと浮かび上がってくるがすぐにボワンと消える。
とりあえず必要なのは襲いかかられたときのことを考えて包丁!?いやでもこれってもしもの場合正当防衛になるのかしら!?あぁでもいくら正当防衛でも人は刺したくない、とどうでもいい考えが浮かんでは消え浮かんでは消え。
再び意識を上昇させたときには、目の前には件の部屋のドアがあった。

(三歩なんて距離、あってもないようなものよね)

眉を寄せたまま白いドアを睨みつけていると再びゴトンガタンと音が耳に入ってくる。
今度こそ確実に目の前の部屋の中から聞こえてきたと嫌々ながら確信する。
引きつる頬をよそに、とりあえず人生四度目の大決意をする。
ちなみに人生最初の大決意はゴミを捨てにいってきてとお母さんに頼まれてゴミ捨て場まで行くのが面倒くさいからそのまま家の玄関の外に放置しておこうかどうか悩んだ時(ちなみに放置してその日の晩は5時間屋外放置プレイを余儀なくされた)
二度目の大決意は高校受験の際、夜食を食べるか食べないかだった(ちなみに食べて半年足らずで8キロも太ってしまった)
三度目は大学受験のセンターの前日、もうなんだか面倒くさくて今更勉強するのもなんだしとけだるかった私は本棚に並ぶドラゴ○ボール全42巻を最初から読み直そうかどうか悩んだ時だ(ちなみに1時間ほど悩んだ挙句やっぱり最初から読み始め逆に徹夜になってしまって次の日はボロボロだった)


そして、今四度目の決意を迎えようとしている、くだらないとか言うことなかれ。
これでも私はかなり真剣だ。


部屋の中にいるのは泥棒か、殺人犯か。
まぁ下手したら今手に持ってる包丁のせいで私が殺人犯になるかもしれないけれど。

とにかく、このドアを開けない事には始まらない!とどこぞの漫画の台詞のようなことを心のなかで呟いて

いざ!!!

ドアのノブを震える右手でまわし(恐れていたわりには思い切り)バーンと開け放った。





















「わっ!?箪笥の中に箪笥かっ!?」
いやーーーーーー!!!やっぱり人がいるーーーーー!!殺人犯!?強盗!?とにかくイヤーーーー!!
「なんだコレは!面白箪笥かッ!?すごいな!




















ちょっとマテ。
なんか私の胸にドキューンとくるようなその素敵ボイスを一体私はどこで聞いた?
なかば振り上げつつあった包丁をとりあえず振り下ろさないよう抑えて、緊張のあまり瞑っていた目を恐る恐る開ける。

「―――こ、これはっ!!!!!!」

開けた目が一番最初に見たものは―――






――――流線美が見事としか言いようのない、もう素晴らしく私好みの二の腕だった。