「Hey, Doggy boy!」
そう言って彼女が片手をあげた瞬間、旦那が思い切り顔をしかめプンとばかりに顔を横にそらした。
理不尽な理由がなければ誰にでも人懐こく笑いかける自分の上司が、だ。
隣の国のお前何様だな殿様相手になら通用する言葉で、うちの旦那に挨拶してもダメだよと彼女にいつか教えてやったことがあったはずだがきっと忘れているに違いない。
思い切り無視されたあげく顔をそらされまでしたというのに彼女、という名の女は少し口をとがらせただけで鼻から大きく空気を吐き出しただけだ。
それこそ既に女のすることではないと思うのだが、彼女の隣に座る信玄公が何も言わず寧ろ面白そうに笑っているから何も言わずただ旦那の後ろに控えているだけにしておく。
「幸村」
「おやかたさま!!」
「が挨拶しておるのだ、おぬしも挨拶せぬか。わしはそんな子に育てた覚えはないぞ」
「ぐっ・・・それがし、おやかた様に育てられた覚えはな」
「ゆーきーむーらぁ」
「・・・・・おやかたさま、それがしにだってできる事とできない事がございます!」
信玄公との座る位置から少し離れた通路にどっかりと胡坐をかいて座った旦那を見習ってとりあえずオレ様もそのさらに後ろで柱にもたれかかる。
本来なら思い切り不敬罪にあたる行為だが信玄公も真田の旦那もそんなことは気にしない、だからこそできる行為だ。
「ん?」
「殿の言う『どぎぃぼぅい』というのは子犬とか犬みたいな子とかそういう類のものだと政宗殿に教わりました!それがし、犬ではございませぬ!犬などといわれるなんて、屈辱的でござる!!」
いちいち声を張り上げなくてもいい距離での会話なのに、一区切り一区切り声を大にして話すのはさすが真田の旦那というべきか。
ただでさえでっかい声なんだからと信玄公の方に視線をやれば案の定信玄公はびくともしていなかったがのほうは両目を瞑りながら耳をしっかりとふせいでいた。
「犬など言われようものなら父上や兄上にも笑われてしまいます!」
「旦那、旦那」
「なんだ、佐助!それがし、きちんと説明を」
「声がでかい。ものすごくでかい。オレ様や信玄公は慣れてるからいいとして・・・姫は慣れてないんだから、みなよ、両耳塞いじゃっててどっちにしろ旦那の言葉なんて聴いてないよ?」
どうして喋ることにまで全力投球なのだうちの主人は。
旦那が信玄公のもとに預けられた少し後からずっと一緒にいたけれどこれは性分で、しかも絶対に治らないものだと諦めもついている。
ただ周りの人間がそれをわかってくれるかが問題なだけで、そんなこと考えていたら結局一生この人から離れられないんじゃとさえ思ってしまう。
「アー・・・sorry、ごめんなさい幸村。ニックネームのつもりだったのだけど、そんなに怒るとは思わなかった。ダメね、やっぱり習慣や考え方がまったく違うからすぐに人を怒らせちゃう」
「あ、いや、その・・・殿・・・」
あんなに大声で文句を言っていたわりに素直に謝られるとどうすればいいのかわからず困ってしまう旦那に思わず笑ってしまいそうになるが、そこは我慢して。
でも信玄公は気にすることなく大きな声でそれはもうおかしそうに腹をかかえて笑い出した。
「おぬしたち、まったく同じ顔をしとるぞ!ほんに面白いことじゃ!、おぬしの言うそのにっくなんとやらはおぬしの言いようを聞く限り人を貶すものではなさそうじゃ。まあ確かに犬と呼ばれるのは誰もが嫌がることではあるが、そのにっくなんとやらをわしや幸村にきちんと説明してくれんか?そうすれば幸村もおなごの前だというに大声張り上げて怒ることもなかろうに」
「おやかたさま!!それがし、怒ってなど」
「お前のその大声は充分おこっとるようにも聞こえるんじゃ、たわけ」
信玄公にあっさりといさめられしょぼんと項垂れる旦那の姿は前から見ても横から見ても後ろから見ても上から見ても、悪いが犬だ。
旦那には悪いがの言う『どぎぃぼぅい』ってのは真田の旦那に充分に当てはまるとオレ様は勿論、信玄公も思っているはずだ。
納得いっていないのは旦那だけで、しかも自分のことだからわかるはずもない。
「ニックネームていうのは、えーと、親しい間柄の人たち同士で親愛の気持ちを込めて呼ぶ名前のこと、かな?あとは有名な人につえられた例えのような名前・・・ん、too difficult」
「異名のようなものか?」
「Oops! そのイミョーっていうのが何かわからないわ。でも悪い意味ではほとんど使わないのよ、まあそりゃ相手を馬鹿にしたりするためのものもあるけれどたいていは親愛の気持ちがこもってるもの。例えば私なんかは仲間たちに『変人』って言われてたわ、まあ影でこっそりの人もいれば笑いながらいってくる人もいたけど。普通は変人って言われたら誰だって怒るでしょ?馬鹿にされてるとかそれこそ屈辱だとか人としてあまり嬉しくない名称だと思うんだけど、でも親しい仲間たちだからこそ言える名前なの。私だって仲間以外にそんな『変人』だなんて言われたら腹が立つわ・・・but it's Greg and Cass's things(だけどグレッグやキャサリンだから)」
最後の方はとても小さな声でその上ここにいる人間にはわからない言葉だったから、誰もがその意味を理解することはできなかった。
ただ彼女がとても落ち込んでしまったのは事実で真田の旦那の顔をくしゃっとゆがめた顔そのままで視線を下におろしてしまった。
慌てたのはをそこはかとなく大事にしている信玄公ではなくまったく同じ顔をした真田の旦那で、あわあわと一人慌てふためくと懐から取り出した懐紙をぐいっとの目の前につきつけた。
いやいやってば泣いてないからね、とかなんだ真田の旦那自分からに近づいていってるじゃんとか。
色々いいたいことはあったけれど全部胸の中にしまっておいて、全く同じ顔をした二人の様子を柱にもたれたまま静かに見守っておく。
パシパシと真田の旦那よりも長いまつげが音をたてるんじゃないかと思えるほどに瞬きさせると、は突き出された真田の旦那の手から懐紙を受け取り
「ありがとう、Doggy boy」
真田の旦那が信玄公にいつも見せるような満面の笑みを浮かべ、ズビビビビーっと思い切り鼻をかんだ。
信玄公たちの前を辞しての帰り道、とことこ前を歩く旦那に後ろから「もう犬っていわれて怒んないの?旦那」と声をかけてみた。
ゆらゆら左、右、左と揺れる旦那の後ろでまとめられた髪がやっぱり旦那には悪いけれど犬の尻尾に見えてしまう。
旦那は結局あのあとが『どぎぃぼぅい』と呼んでいたことに文句を言うことはなかった、もで多分あの一瞬で真田の旦那が「犬は嫌だ」と言っていたのを忘れてしまったんだと思うが。
「親愛の気持ちを込めていると殿は言ったからもういいのだ。他のものに言われたらそれがしはまた再び声を張り上げるだろうが、殿ならもういいのだ」
「ふーん、そ?真田の旦那も大人になったってこと?」
「それがしはとっくの昔に大人だぞ、佐助ッ!それにそれがしも決めたのだ」
ぐっとオレ様の目の前で旦那が拳を強く握り締めた。
「なにを?」
「それがしが殿の仲間の代わりに『変人』と呼んでやることにしたぞ!どうだ、佐助!?」
どうだもなにも。
オレ様はとりあえず教育的指導とばかりに頭に一発張り手を食らわせておく。
なぜ叩くのだとわめく旦那を今度は尻目にスタスタと帰り道を急ぐ。
きっと真田の旦那がのことを『変人』といったらそれこそ数刻前の旦那のように顔を真っ赤にして声をはりあげえるに違いない、そうあの時とまったく同じ顔をして。
「まだ旦那には早いよ、どぎぃぼぅい」
「ふぬぅぅ、佐助にはどぎぃぼぅいと呼ばれたくないぞ!!おぬしのはまるで『わんこ』みたいで胸がもやもやする!」
なんだわかってるんじゃん。
オレ様の正直な気持ちは言葉になることはなく、ただ大きく口をあけて声に出して笑った。