アルサーンスの空の下で                  
 
  第五章  
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「ディオさん、最近何だか、元気がありませんわね」
 そう言って、温かいデルネ豆のスープを出してくれたアンジュに、ディオは薄く笑みを返した。
「ここのところ、ちょっと忙しいからね」
「今から、またお仕事ですか?」
「うん」
「大変ですわね」
「まあ、それが仕事だから」
「感謝していますわ」
 アンジュのほっそりとした手が、パン駕籠をつかむ。
「聖務官のみなさんが頑張って下さるお陰で、わたし達は安心して、日々を過ごすことができるのですから」
「アンジュ、こっちにもパン」
「アンジュ、ビール、ビール追加」
「俺はワイン」
「はい、ちょっとお待ち下さいね」
 それで、その日のアンジュとの楽しい一時は終わった。
 朝と同じく、夜の食堂も満員状態だった。夕食の場合、各々の仕事が終わる時間に応じてばらける分、少しは空いてくれるはずなのだが。朝とは違い、酒が入ることで、どうしてもみな長居となってしまう。それがこの混雑を生み、当然のごとく、アンジュを独占することは不可能となるのだ。
「なあ、アンジュ、聞いてくれよ。ガーマットの奴、こんなことを言うんだぜ」
 上司か同僚か、あるいは部下か。恐らくアンジュは顔も知らないであろう者の愚痴を、延々と言い続ける男の赤い顔を見やりながら、ディオはパンを千切った。
 こういうのって、誰かに言うだけで、すっきりするんだろうな。
 笑みはあるものの、明らかに気のない、というか、状況が分からないため、とにかく相槌を打つしかない様子のアンジュを見つめ、スープをすする。デルネ豆独特の青臭さと香ばしさが、バランス良く引き出された味を堪能する。
 食堂で飛び交う悪口など、実に他愛のないものだ。まあ、聞かされる方は少々迷惑だろうが。吐き出すだけ吐き出してしまえば、当人は満足するのだから、何も真剣に聞く必要はない。知らない人間の話など、適当に流せばいい。しかし、これが見知った者となると、反応は難しくなる。うっかりうんと頷こうものなら、いつの間にか、自分がその悪口を言ったことになり兼ねない。そういう危険な愚痴は、人に零してはならない。
 アルサーンス聖務署署長、セシルア・フェルバール。
 顔と姿はともかく、未だに彼女の名を知らぬ者は、まずこのアルサーンスにはいないだろう。
 ディオは大きく溜息をつくと、立ち上がった。
「ディオ、お代わりは?」
「いや、もう十分だよ、エマ」
「そうかい。じゃ、気をつけて行っておいで」
「よお、ディオ。今から夜遊びか?」
「若いもんは、元気でいいのう」
 罪なき人々の罪なき野次を背にし、食堂を出る。茜色の空を見つめ、両腕を大きく広げ、深々と息を吸う。それを、今日一日の愚痴の代わりとする。胸の中に溜まったものを、流す。 「よし!」
 気合と共に、バルに乗る。朝とは異なる色を見せる海に、朝と同じ感嘆の息を返しながら、ひた走る。山の端にかかった太陽が、ぐずぐずと空にしがみ付いている間に、ソルドノート墓地まで辿りつかなければならない。今の時期、日は長い。夜九時近くまで、空は澄んだ青い色を保っている。今からでも、十分に間に合う――はずであったのだが、
 ぎりぎり……かも?
 どこで計算を間違えたのか。去り逝く夕陽が、最後に強く煌いた。途端、押し潰されるように、空が重くなる。一気に、夜の幕が降りる。
 結局、ディオが墓地の門前に辿りついた時、空にはくっきりと月が正円を描いていた。その明かりの中で、目を凝らす。あれ?と、首を捻る。人影は一つ。
 署長――だけ? ひょっとして、俺が一番?
「遅いぞ」
 そのまま回れ右をして帰りたくなるような声で、セシルアが怒鳴る。
「他の者は、もう山に入った」
 ……だよな。
 心の中で一つ呟き、頭を下げる。
「遅くなって、申し訳ありませんでした」
「その台詞は、もう聞き飽きた」
 容赦のない罵倒が、ぐさりと胸に突き刺さるのを覚えながら、ディオは顔を上げた。
「では、私も山に」
「待て。お前はここで待機だ」
「え? ここで?」
「ダルダの習性からすると、またこの墓場に戻ってくることが考えられる。普通の状態ではないようだから、確率的には低いかもしれないが、可能性は捨て切れない。分かったら、そっちを見張れ。気を抜くな」
「はっ」
 と返事をしながら、自問する。
 ってことは、今夜一晩、ずっとこの署長と一緒に、ここで……。
 ついた溜息が、口から漏れ出るところを寸前で止める。目の前の山より、傍らのセシルアに緊張を覚える。時折吹く風の音、フクロウの泣き声、それ以外、何の音も動きもない時間が、恐ろしいほどゆっくりと進む。重苦しく、体を縛る。
 堪りかねて、ディオは横目でセシルアを見た。何か話しかけようと思うが、その何かが見つからない。下手なことを口走りでもしたら、きっとまたどやされるだろう。無論、勤務中に無駄話などもっての外であることは、ディオも重々承知していた。だが、人間、そう緊張状態を続けることはできない。長時間の任務ともなれば、適度に気持ちをほぐすことが必要となる。ちょっとした世間話などを交えながら、バランスの取れた精神状態を維持することが、大切に。
 ディオは、セシルアから視線を外した。どう考えても、彼女と談笑するなどという奇跡は、起こせそうにない。何を話しかけようが、事態は悪化するだけであろう。
 仕方なく、ディオは左手に宛がわれたガントレットを弄った。甲の部分に埋め込まれた銀水晶を指の腹で摩る。そうすることで、ひりひりと高ぶっている神経を諌める。

 
 
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  第五章・1