アルサーンスの空の下で                  
 
  第八章  
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 その日は朝から雨だった。
 どんよりとした空が、地上にあるものをくすんだ色に染めていた。そのことが、幼いディオから現実感を遠ざけた。
「さあ、最後のお別れを」
 白い花を一輪だけ携え、聖会の中に置かれた棺に近付く。台に乗せられているため、子供には高過ぎる。棺の中を覗くことができず、ディオは立ち止まった。誰かが慌てて、踏み台を用意する。抱きかかえられ、そこに乗せられる。
 ディオは、恐る恐る、中を見た。
 女の人が、眠っていた。直ぐに母だと分からなかった。何だか、妙に綺麗だったのだ。乱れた髪は整えられ、鉛色だったはずの肌には、薄っすらと赤みがさしたかのような化粧が施され、すっかり痩せ細った腕や足や体は、色取り取りの花で見えなくなっていた。
 何より。
 ディオは白い花を握り締めたまま、少しだけ身を前に傾けた。
 母の顔が穏やかだ。そこに、苦悶の皺がない。こんな顔は初めて見る。こんな人は、初めて見る。
「最後のお別れを」
 促すように背後でそう囁かれ、ディオは反射的に答えた。
「違う、母さんじゃない」
 振り向き、叫ぶ。
「この人は、僕の母さんじゃない!」
 誰かがそこですすり泣く。
「この人は、僕の――」
「ディオ」
 駆け寄ってきた青い衣が、しっかりとディオを抱く。
「すまない、ディオ」
「……聖使徒……様」
「お前に、お母さんを返してやることができなかった。すまない」
「でも……でも、聖使徒様。この人は……この人は」
「ディオ、もう一度よく見てごらん。この優しい顔をした美しい人は、間違いなく君のお母さんなんだよ」
 ベルナード聖使徒にそう諭され、ディオはもう一度棺の方を向いた。縁に手をかけ、覗き込む。そして小さく首を横に振る。
 ディオの肩に、聖使徒の大きな手が添えられる。
「私はね、この人に頼まれたのだ。どうか後を頼みますと。息子を、ディオを、よろしくお願い致しますと」
 不意に、両の頬から涙が零れた。乱暴に拭おうとした拍子に、白い花が掌を離れた。
 ふわりとそれが、棺の中に落ちる。横たわる人の、母の胸元にはらりと散る。
「すまない、ディオ」
 ベルナード聖使徒の声が響く。
 後を……頼むと……息子を――頼む、娘を――娘を――。
「ディオ!」
 吸い込んだ息をほんの一瞬だけ止め、ディオはゆっくりとそれを吐き出した。目に映る人物がバジルであることを認め、微笑む。が、直ぐにディオの顔が緊張に強張る。
「ベッツさんは? マーチェスさんは?」
 短い息での質問に、バジルが穏やかに答える。
「大丈夫だ。二人とも怪我はひどかったが。ニーベランの聖使徒様が力を尽くして下さったお陰で、今はもう任務についている」
「今は……って? じゃあ、今日は? それにここは?」
「アルサーンスだよ、ディオ。アルサーンスの聖務署に、戻ってきたんだ」
 バジルの目尻に、優しい皺が寄る。浮かしていた腰を、傍らの小さな丸椅子に戻しながら、なおもディオに語りかける。
「しかし、六日も眠り続けるとはな。心配はないと言われても、不安だったよ」
「六日……六日も……」
 頭の中で反芻でもするかのように、ディオは呟いた。しかし、すっぽりと意識のなかった時間に、何らかの実感を持つことはできなかった。それよりも、強く残る最後の記憶が、胸を塞ぐ。
「……六日」
 と、三度呟いたところで、ディオは覚悟を決めた。震える声で、バジルに問う。
「それで――彼女は? ローディアは?」
 バジルの表情が急速に翳る。事実を悟る。
「そう……ですか」
 力のない声で、ディオは言った。
「だめ……だったんですね」
「ああ、我々が到着した時は、もう彼女は虫の息で」
「虫の――息?」
 思わずディオは、寝かされていた仮眠用ベッドから上体を起こした。それを制するバジルの手をつかんで叫ぶ。
「まだ、息があったんですね。祈りの魔法は、まだその効力を失っていなかったんですね。じゃあ、なぜ助けられなかったんですか? ニーベランの聖使徒は、なぜ彼女を救ってくれなかったんですか?」
「無茶を言うな、ディオ」
 バジルの眉が、珍しくきつく寄せられる。
「あの時聖使徒様は、ベッツとマーチェスの治療で手一杯だったんだ。何より彼ら以上に、お前が……。署長が全力を使って祈りの魔法を施さなければ、今頃はお前も」
「ちょ、ちょっと待って下さい。署長って? うちの署長?」
「そうだよ、ディオ。私も随分驚いた。署長が『陰』の魔法の使い手であることは知っていたが、まさか祈りの魔法もこなせるほどであったとは。とにかくそのお陰で、お前は助かったんだ。先に言っておくが、誤解してはいけないよ。あの時、誰があの場所にいたとしても、同じ判断を下しただろう。まずベッツ、マーチェス。そしてディオ。生き残る可能性があったのは、この三人だけだった。署長もニーベランの聖使徒様も、正しい判断のもと、全力を尽くされたのだ」
 ディオは沈黙した。もし、自分ではなく、彼女を先に治療していたら、という思いがなかったわけではないが、口にすることはできなかった。彼女の代わりに助かったのだ、ということも。こうして考えるだけでも、罪のような気がする。
 命は数ではない。誰かを助けるために、誰かが犠牲になるなどということは、絶対にあってはならない。そんな冒涜は、許されない。彼女は彼女の生を全うした。生きるということを、精一杯務めた。そしてもう一人、彼も、ベルナード聖使徒様も――。
「……聖使徒……様が……聖使徒様は……もう」
「ああ」
 独りごちるかのようなディオの呟きに、バジルが答える。

 
 
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  第八章・1