食堂は閑散としていた。夕食の時間まで、まだ一時間ほどある。昼夜の区別なく飲んだくれているユンデ爺さん以外に、客はいない。カウンターのところにも、人影はない。聞こえる音は、テーブルに突っ伏したユンデ爺さんのイビキだけ。エマおばさんもアンジュも奥に引っ込み、恐らく夕食の下ごしらえでもしているのだろう。
ディオはゆっくりとカウンターのところまで進むと、その真中辺りに立った。手に持った荷物を床に置き、カウンターに片肘を乗せる。
「あら、ディオさん、お帰りなさい」
明るい声が、ディオの心に射し込んだ。顔を上げる。優しい笑顔に、思わず表情を崩す。
「……アンジュ」
「休暇はいかがでした?」
「うん、楽しかったよ」
「確か、マリーセアに行かれたのですよね。青い海、白い砂浜。私もいつか、行ってみたいですわ」
その言葉に、ディオの目が複雑に揺れる。
「そう……なんだ。そう、思うんだ」
アンジュが小首を傾げる。
「コーヒー、と思いましたけど。紅茶の方がよろしいかしら。少し、お疲れのようだから」
「あ、いいよ、アンジュ。今、忙しいんだろ?」
「紅茶を入れる時間くらいありますわ。夕食の準備は、もうあらかた終わっていますから。そうそう、ついさっきクッキーが焼き上がったばかりですのよ。なので、それも一緒に。でも、食べ過ぎないで下さいね。夕食が入らなくなると困りますから」
小さな子供に注意するようなことを言って、アンジュは微笑んだ。いくら何でも、と、その時は思ったが。
慣れた手つきで、あらかじめ温めておいたポットに、アンジュオリジナルブレンドの紅茶の葉が入れられる。そこに、湧いたばかりの湯が勢いよく注ぎ込まれる。素早く蓋が閉められる直前、香りがふわりと立ち上る。その刺激で、すっかり鳴りをひそめていた腹の虫が目を覚ます。紅茶の葉が開ききる前に、早くカップに注ぎたい、そんな衝動にかられながら、淡いクリーム色のカバーが被せられたポットをディオは見つめた。そこへ、甘い香りを放つクッキーが、大皿に乗って登場する。
こんがりと焼けた小麦の色が、ディオを誘う。丸く、やや薄めに形作られた一枚を、ディオは皿の横に添えられた白い紙ナプキンで包むようにつまむと、口の中に放り込んだ。
さくっと音がして、優しい甘みが広がる。その後を追うように、素朴な麦の香りと、しっとりとしたバターの味わいが膨らむ。そして、
「もう、いいと思いますわ」
アンジュがポットから紅茶を注ぎ込む。宝石のような光沢を持つ紅い液体が、カップの中でしなやかに揺れる。もう、止まらなかった。はっと気がついた時すでに、ディオはクッキーを七枚、紅茶を二杯飲み干していた。
「夕食、ちゃんと召し上がって下さいます?」
アンジュの目が、面白そうに輝く。アルサーンスの海のように、キッパルの海のように、煌く。
ディオは、手に持った八枚目のクッキーを、そっと皿の端に置いた。アンジュを見据え、言う。
「アンジュ、時間、まだ大丈夫かな?」
「時間、ですか?」
「大事な話があるんだ。とても、大事な」
「ディオ――さん?」
「だから、少し時間を――あっ、エマ」
ちょうどカウンターの奥から、ちらっとこちらを覗き見たエマに、ディオは声をかけた。
「あの、アンジュ、ちょっと借りていいかな? 夕食の時間までには、ちゃんと帰ってくるから」
「あたしは別に」
エプロンで両手をふきながら、エマが出てくる。
「構わないけど。一体、何事だい?」
「そうか、ディオ、ついに決心したか!」
不意に後ろでそう叫ばれ、ディオは驚いて振り返った。眠りこけていたはずのユンデ爺さんが、赤ら顔をこちらに向ける。
「そうか、いよいよ覚悟を決めて、アンジュに告白するのか」
「こ、こ、告白って……お、俺は」
「何だい、ディオ。そういうことかい」
「ち、違うって。あっさり納得しないで――」
「若いってのは、いいのお」
「本当にねえ」
「だからあ」
前と後ろを交互に見やりながら、ディオは懸命に否定した。
「そういう個人的なことではなくて。それは、また別の機会に――って、ああ、違う。そうじゃなくて、今日の話は、今から話すことは聖務官としての、いわば職務質問のようなもので」
その言葉に、エマとユンデの表情が固まる。わずか数秒、それが爆笑に変わる。
「分かった、分かった。じゃあ、そういうことにしておくか」
「まあ、ゆっくりしておいで。アンジュ、時間は気にしなくていからね」
「エマおばさま」
アンジュが少し困ったような表情を見せる。しかし、それを残念に思う余裕は、ディオにはなかった。
「とにかく、お借りします」
意味なく頬を赤く染め、エマに向って頭を下げる。にこやかな笑顔に後押しされ、ディオ達は食堂を出た。