アルサーンスの空の下で                  
 
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 まどろみの中で寝返りをうつ。枕を抱え込むディオの耳に、アンジュの声が響く。
「ねえ、あなた」
「う、ううん」
「早く起きて下さい」
「ううん」
「ディオ、もう起きる時間――」
「分かったよ、アンジュ」
 ディオの腕が、空気を抱く。しばらくその意味を考える。まず目がぼんやりといつも通りの部屋を映し出し、耳が微かに朝の賑わいをとらえ、そして鼻が妙なる香りを察知し、腹をぐうっと唸らせる。
「――朝!」
 ベッドから飛び起きる。
「しかももう、朝飯の時間!」
 パイチ色の制服と、毛むくじゃらの制帽をつかみ、部屋を飛び出る。廊下を転がるように走りながら、それを身につけるという芸当をやってのける。階段を下り、食堂の扉を開ける。
「遅い!」
 開いた扉の先で、待ち構えていたように立つエマがそう言った。いつも以上に殺気だった食堂を背景に、貫禄のある腰に太い腕をあてがい、怒鳴る。
「とっくの昔に、もうみんなで見送ったよ。こんな大事な日に、一体あんたは」
「それは何分前?」
 混雑する食堂内を走り抜けながら、ディオが叫ぶ。
「十分ほど前だ、パイチ」
 声がかかる。
「走れ、パイチ。まだ間に合うかもしれない」
「ディオ、がんばれ」
「これっきりなんてことに、するなよ」
「ほら、バルだ」
 ザックス、トーマ、イーノ。高速で後ろに流れていった声に、心の中で感謝を告げながらバルに飛び乗る。掌のボールに気を流す。
 通りを抜け、坂を上り、澄んだ海色に飛び込む寸前で、左に曲がる。真っ白な道を下り、美しいパイチ色と海色に別れを告げ、左に曲がる。そして再びうねる坂を上る。聖会の尖塔を睨みつけるように見ながら、滑る。
「馬鹿野郎!」
 聖会への坂を登り切った瞬間ベッツにどやされたこと、そして、バルの勢いをつけ過ぎたことの両方で、ディオは見事にすっ転んだ。
「みんなもう、転移魔方陣のところに行ってしまったぞ。全く、お前ってやつは――って、おい、人の話を」
「後で、後で聞きますから」
 恐らくやきもきと自分を待っていてくれたのであろうベッツに、胸の内で謝りながらディオは駆けた。聖会の扉を押し広げ、一瞬迷い、えいと走る。「聖会の中では静寂に」と同様、どんな小さな子供でも知っている、「聖会の中で走ってはならない」という決まりを、激しい足音で破る。聖僕達の驚く顔に、小さくすみませんとだけ返し、地下へと急ぐ。
「――アンジュ!」
 そう叫んだ自分の声が、予想以上に大きく反響し、ディオはたじろいだ。いっせいに向けられた冷たい目に、肩を竦める。
 バジル、マーチェス、フラー副署長。それに、一週間前、新しくアルサーンスの聖使徒となられたクローレス聖使徒様。そして、
 ……アンジュ。
「ディオ……さん」
 バラザクスよりの使者と共に、アンジュは転移魔方陣の中央に立っていた。足元にはもう、光が溢れている。その光の中でアンジュがにっこりと微笑み、頭を下げる。
「いろいろと、ありがとうございました」
「アンジュ」
「――ダオ――」
 クローレス聖使徒が呪文を唱える。慌ててディオが叫ぶ。
「戻ってくるよね。裁判が終わったら」
 アンジュの顔が上がる。光が一層眩しく輝く。
 もう、時間がない。
 ディオは意を決して、周囲を顧みず、続きの言葉を吐いた。
「大事な話があるんだ。君に、大事な。だから必ず――」
「――――」
「ザトラス!」
 聖使徒の呪文が、アンジュの姿を光の中に沈める。
「アンジュ!」
 光の波が、壁に当って弾ける。砕け、粒となり、空間に消える。
 ――はいって。
 へなへなとその場に座り込みながらディオは思った。
 最後にはいって、言ってくれたよな。
 光をなくし、すっかり冷えた転移魔法陣を朧に見る。
 確かに、はいって、そう――。
「大事な話って……何だ?」
 背後でそう声が響いた。
「……ベッツさん?」
 ディオを追いかけ、ここまで走ってきたらしいベッツが、軽く息を切らしながら続ける。
「一体、何を……アンジュに話すつもりだ?」
「そ、それは」
「まさかとは思うが、半人前の分際で、いっちょう前にプロポーズなんてことじゃねえだろうな」
「ど、どうして、それを」
「いや、いくら何でも、そこまで馬鹿ではないでしょう」
 マーチェスが、大げさに首を振りながら言う。
「今の給料では、自分が生活するだけで精一杯。とても妻を迎えることなどできません。それに、聞いた話によると、ディオは全く貯金をしていないようですからね。それでは、婚約指輪一つ送ることもできない。給料の四ヶ月分が、相場ですから」
「えっ、そんなにかかるもんなんですか?」
 軽く蒼ざめたディオを、マーチェスが面白そうに見やる。
「まあ、それ以前に、身分不相応ですからね、アンジュに対して、このディオでは」
「うむ、そうだな」
 フラー副署長が、後を引き継ぐ。
「どう考えても、不釣合いだ。器量、品格、性格、人格。要するに格が三段ほど、いや、五段ほど違うものな」
「そんなに……違いますか……」
 力なく項垂れたディオの頭上で、三人の笑い声が響く。見かねてバジルが声を出す。

 
 
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