「ユーリ……?」
飛び込んだ闇の向こうは、また闇であった。しかしテッドとミクは、辛うじて前方にユーリの後ろ姿を捉えた。ユーリ自身が手にしている明かりが、そのシルエットをぼおっと浮かび上がらせていたのだ。二人はユーリに近づこうと、一歩足を踏み出した。
ふにゃり……。
妙な感覚が、二人を一瞬立ち止まらせる。踏み込んだ足に、抵抗感がない。さらに踏み込む。やはり地面からの反発が感じられない。ふわふわと空中を歩いているかのようだ。明かりを翳すが、何も見えない。というより、明かりが届かないのだ。小さなペン型のライトは、自身の周りだけを空しく照らしている。四方八方、闇に包まれているせいか、平衡感覚もおかしい。一歩進む度に足元がふらつく。
「これも何かのトリックか?」
テッドの低い呟きに、ミクは無言だった。この奇妙な感覚に加えて、先ほどから異様な臭いが鼻をつき、気分が悪い。ただ一歩を踏み出すことだけで、精一杯であった。
よろめいては立ち止まり、立ち止まっては、またよろめく。長い時間をかけて、ようやく二人はユーリの傍らまで進んだ。
出し抜けに、視界が闇から解放される。そして思わず息を呑む。
「こいつぁ……」
テッドの言葉は続かない。ユーリの翳した光の中、映し出されたものをただ凝視する。
そこには――。
一人の男の姿があった。両腕を鎖で壁にくくりつけられているその男の服はぼろぼろに破れ、体にはまだ生々しい無数の傷があった。よく見ると、赤黒い傷口の中に、所々、白いものが見える。傷が骨まで達しているのだ。さらに目を凝らすと、その周りで蠢くものがある。蛆だ。半ば腐りかけた肉片に、無数の蛆が湧いているのだ。だが、そんなことよりも三人が眉をひとめたのは、その男の顔であった。見るも無残に焼かれている。赤く爛れた皮膚で覆われた顔は、もはや人の顔としての原型を止めてはいない。
「……ひでえな」
ようやくテッドは残りの言葉を吐いた。本当に、生きているのが不思議なくらい、酷い状態だった。
そう、その男は生きていたのだ。今にも消え入りそうな微かな呼吸に伴って、男の胸膈がゆっくりと静かに波打っている。
「とにかく、やれるだけのことはやってみる」
テッドはそう言うと、男の方へ歩み出た。
その時だった。奇跡的に生を保っているその囚われの男が、驚くほどはっきりとした力強い声を放ったのは――。
「無駄だ」
声に、張りと若さがある。
「――帰れ」
音が、鋭く尖る。
「いくらこの体を切り刻もうと、まやかしの術をかけようとも、私は貴様ごときに屈したりはせぬ。渡さぬ……決して――決して……」
鎖の軋む音が響いた。痩せこけた男が右膝を立てた。ぐらりと大きく上半身が揺れる。壁で体を支えながら、骨の剥き出た足で立ち上がる。
思わずテッドは後ずさりした。ミクもだ。そしてユーリだけが、そこに踏み止まる。
「帰れ! 卑しき者め。私を見くびるではない。私は、私は――」
男の顔が歪む。爛れた肉片で潰れている両目が、ゆっくりと開かれる。信じがたいほど凄とした蒼い光が、矢のように放たれる。
「我は、アルフリート・ヴェルセム。キーナス国の王として、国に災いをもたらす卑しき者に、決して屈したりはせぬ!」
言い終わるや否や、男は崩れ落ちた。
「テッド!」
悲鳴にも似たユーリの声にテッドは動いた。
「大丈夫だ。まだ息はある。ユーリ、鎖を切ってくれ」
ユーリは男の腕を縛り付けている鎖に、折れた剣を立てた。剣を持つ手に、ただの鉄から受ける抵抗以外のものを感じる。ユーリは迷わず、鎖ごとそれを断ち切った。
――ソレデ、ヨイ――
瞬間、ユーリは体を強張らせた。恐ろしいほどの冷気を感じ、思わず両腕を抱え込む。にも関わらず、額には見る見るうちに汗が染み出た。
「ユーリ、どうしました?」
ただならぬユーリの様相に、ミクが心配そうに尋ねた。声を震わせ、ユーリが答える。
「今、誰かが――声が……」
「声?」
そう言うと、ミクは不思議そうな表情でテッドを見た。小さく二回、テッドは首を振りユーリを見つめる。
「おい、大丈夫か?」
ユーリの額の汗が、玉となって地に連なる。あまりにも硬直した体はがたがたと激しく震え、端正な顔には憔悴の色が濃く滲み出る。
「ユーリ」
「ユーリ!」
すうっと。
ユーリの全身から力が抜けた。その弾みで顎がくいっと上がり、同時に瞼が閉ざされる。
静寂。
やがてユーリは、大きく一つ息をついた。澄んだ夜空の煌きを放つ瞳が、再び姿を現す。
「消えた」
「――消えた?」 テッドが尋ねた。
「うん、もういない」 ユーリは静かに言った。
「だからきっと……もう、霧は晴れていると思うよ」
その日、ブルクウェルの空は晴れ渡っていた。人々の歓声の中、エルティアラン出征軍が、この日街を後にした。
同じ日の夜遅く、カンピリオという小さな村に、奇妙な一行が到着した。一人は、まだ少年の面影を残す青年で、特に髪と同じ色の、煌く漆黒の瞳が印象的だった。その青年にぴったり寄り添うように、燃えるような赤い髪と理知的なグリーンの瞳を持つ細身の女と、長いダークブラウンの髪を無造作に束ねた、体格の良い男が付き従う。そして、もう一人。黒いフードのついた長いマントを身に纏った、長身の男。顔を覆うフードからは、恐ろしいほど冷冽な蒼い瞳が、異様なほどの威圧感を漂わせている。
次の日。
まだ朝靄の残るその村から、すでに一行の姿は消えていた。
キーナスは、まもなく夏と呼ばれる季節を、迎えようとしていた。