蒼き騎士の伝説 第一巻                  
 
  第五章 闇に蠢くもの(2)  
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      二  

 その男は、もうかなりの酒を飲んでいた。だが酔えない。飲んでも飲んでも、酔いつぶれることができない。頭にこびりついた光景を、どうしても消し去ることができない。血まみれの、無残な姿のビルレーム。それを前にした、血の気のないトゥアラの顔。泣くでも喚くでもなく、彼女はその時、ただ震える手でビルレームを抱いたまま動かなかった。ずっと、ずっと、いつまでも。
 痩せた貧相な顔つきの男は、そこで酒を諦めると、家の外へと出て行った。半円を描く二つの月に誘われるまま、広場へと足を向ける。静かな夜だ。風もない。ひっそりと、町全体がビルレームの死を悼んでいるかのようだった。
 男は広場の中央にある、小さな泉の脇に腰を下ろした。人工的に作られたこの泉の水面には、夜空と同じ姿が映し出されている。ぼんやりと、それを見つめる。
 こんな、こんなことになるなんて――。
 今日一日、何度呟いたか分からない言葉が、また溢れる。
 あの時、どうしておれは――。
 そして同じく、今日一日何度も悔いていることを、また悔いる。
 ビルレームさんは、あの日もこのおれに声をかけた。悪いが、また頼まれてくれないかと。当座の金は足りていた。それに気まずさもあった。恨みに思うほどではないが、殴りかかってきたやつらと一緒に仕事をするのは、気が進まなかった。
 だが一番の理由は、やはりラグルのことだった。襲撃された時の恐怖が抜けない。やつらの奇声と振りかざされた斧の残像が、まだ体の中に残っている。怖かった。とても、怖かった。
 結局、おれは断った。でも次は、次の時には、おれはまた引き受けるつもりだった。誰かが手伝わなきゃ、間違いなくビルレームさんの店は潰れてしまう。店が潰れたら、トゥアラは……。
「くそっ」
 男は小さくそう言うと、両手で髪を掻き毟った。
 あの時、自分が引き受けていれば。もっとも、仮にそうしたとしても、この悲劇に新たな死体が一つ加わるだけに過ぎないであろう。それでも悔いる。悔い続ける。繰り返し胸の内に浮かぶのは、トゥアラの姿。まるで人形のような、生きたまま魂を抜かれたかのような表情。
「あの時……」
 男の喉の奥から、搾り出すような音が漏れる。涙が溢れる。乱暴に頬を転がり、ぽとぽととそれは泉に落ちた。鏡のような水面に波紋が広がる。白銀の月が、震えるように揺れる。
 不意に、月の姿が激しく千切れた。男の顔に水飛沫が散る。反射的に空を見上げる。
 煌く星。幽玄の輝きを有する月。
 男は、濡れた顔を手で拭いながら下を向いた。立ち上がり、目を凝らす。先ほどまではなかった影を、泉の中に見出す。月明かりの元、朧げながらもその物体の姿が浮かび上がる。
 ……ラグル!
 それは白目を剥き、すでに息絶えたラグルであった。あり得ない光景に、男の腰が崩れる。尻をついたまま、ずるずると後ずさりをする。
「ふ、ふわっ」
 すぐ耳元を掠めた大きな物音に、男は小さな悲鳴を上げた。懸命に体を返し、四つん這いになる。その場から逃れようと這う。
「ひっ、ひい……」
 男の口から、壊れた笛のような情けない音が出る。またしてもラグル、ラグルの死体。
 そしてさらに。
 もはや声を出すことすらできなくなった男の目の前に、それは落ちた。恐怖に震えながら、カチカチと自分の歯が騒ぎ立てるのを聞く。その音と同時に、低い唸り声を。地を伝わって響くその声は、確かに目の前から聞こえる。歯のかち合う音が、いっそう激しくなる。
 目を閉じたかった。だが、硬直しきった体は、それを許さなかった。凝視し続けたものが、そろりと動く。ふらつきながら立ち上がり、よろめきながらこっちへ向かって来る。
 瀕死のラグルが、男の真正面に仁王立ちした。頭上高く、斧を振り上げる。持ち主の意思に反して、男の目がそれを追う。
 冷たく光る斧。
 背には、青白い月。
 その月の中に、黒い影。
 ……なんだろう。
 意識の海の極々表面を、掠めるかのようにして男は思った。輪郭を辿る。人の形に見える。ひらひらと衣を翻し、空に浮かんでいる。両腕を大きく広げ、その手の先に、青白い稲妻の光が宿っている。そして――。
 ラグルの斧が、真っ直ぐに振り下ろされた。
 破滅の光が溢れる中、男は静かに息絶えた。

 

 
 
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