蒼き騎士の伝説 第一巻                  
 
  第七章 エルティアラン(3)  
         
 
 

 ティアモスは懐から右手を出した。しっかりと、王より預けられしものを握り締め、それを壁に向かって掲げる。再び、ティアモスの息が止まる。ひんやりとした場所にいるにも関わらず、額に汗が滲む。
 何も起こらない。
 ティアモスは大きく息を吸い込んだ。
 何も起こらないではないか。
 緊張状態にあった顔の筋肉が、緩やかに弛緩を始める。だが、その目的を達する前に、筋肉は再び硬直した。右から左へ、ディルフェルの壁の上を這うように、一筋の青い光が走ったのだ。一瞬だった。見間違いかと思った。しかし、それを打ち消すべく、再び壁の上を光が走る。今度は左から右に。先ほどよりはやや下、ちょうど目線の高さに。
 ティアモスは半歩、後ろに引いた。また光が走る。今度は二本、そして三本。光の線はどんどん増え続け、やがて織機に通された糸のように密に並んだ。さながら一枚の大きな青い布。走る光の煌きが、風にはためいているかのような効果を与えている。
 と、一際激しく、布にうねりが生じる。壁の中央が歪み、全ての線が引きずられる。じわじわと全体が右回りに回転し、捻じ込むようにして光を呑み込んでいく。歪みの中心部が青い光で満たされ、捻じれるごとに圧縮し、深く、濃く、色を変えていく。そしていつしか、そこから光が消えてしまった。後にはぽつんと小さな穴。先のない、見通すことができない、どこまでも果てしない闇色の穴。
 ティアモスはじっとその闇を見つめた。額から汗がまた吹き出る。吸い寄せられるような感覚を覚え、体が震えた。震えながら、動く。本人の与り知らぬところで足が踏み出され、右手がせり上がる。自分の視界に不意に現れたものが、自身の手であることを認めた時、ティアモスの乾いた唇から呻き声が漏れた。その手の中で、円盤が白く光る。光は闇に向かっていた。そろそろと、だが、止まることなく、闇色の空間へと。
「ティアモス将軍」
 心臓が、大きく一つ脈打った。その拍子で、呪縛が解ける。手から落ちた光の円盤が、激しい音を立てて床を打つ。そしてそのまま大きく弧を描きながら、呪縛を解いた声の主の足元まで転がる。
 ティアモスが呟いた。
「……ロンバード殿……」
「これは――一体?」
 ディルフェルの壁にある不気味な穴を見据えたまま、ロンバードは問うた。そして、ゆっくりとその視線を足元の円盤に落とす。手に取ろうとして屈み、すぐに腰を上げた。恐れを覚えたわけではない。拒絶された感もない。ただ、これは自分のものではない、自分が手にすべきものではないという思いが、強く心を占めたのだ。
 ロンバードは光の円盤から視線を外し、その顔をティアモスに向けた。
「これは――一体?」
 同じ問いだが、前と違って咎めるような色が含まれている。その音に、ティアモスは心の乱れをさらに強めた。落ち着きなく光の円盤とロンバードを見比べながら、額の汗を拭う。
「……陛下が……」
 弱々しく吐いたティアモスの言葉に、ロンバードは凍り付いた。
「陛下が? 陛下が、何と?」
 激しい起伏が、そのままロンバードの心の内を示していた。その調子に反比例するかのように、ティアモスの心の波が幾分凪ぐ。
「これは――これは、私に下された命令だ」
 その意を自ら確かめるかのように、少し間を置きながら、はっきりとした口調でティアモスは続けた。
「貴殿にその詳細を、話さねばならぬ義務はない。このまま、立ち去られよ」
「それはできぬ」
 間髪入れず、ロンバードが答えた。
「貴殿をここに残したまま、立ち去るわけにはいかぬ」
「ロンバード殿」
 ティアモスは眉間に深く皺を寄せ、二度横に首を振った。
「今一度、申し上げる。これは陛下の御意である。この場を、立ち去られよ」
「できぬ」
 そう言い放つや否や、ロンバードはするりと剣を抜いた。反射的にティアモスも剣の柄を握る。しかし、その剣を抜くより早く、ロンバードの剣は持ち主の手を離れ、高く音を立てながら、ティアモスの足元に転がった。
「――できぬ」
 ロンバードは静かに言葉を重ねた。二人の険しい視線が交差する。長い沈黙。共に彫像のように微動だにしない。重く、熱を帯びていく空間が、全身を締め付けるようにして包む。微かな動きも持たない空気はねっとりと粘着性を帯び、触れているだけで息苦しい。時の感覚が麻痺する。背を伝って流れ落ちる玉の汗が、辛うじて意識を支える。
 ついに、ティアモスが目を伏せた。おもむろに、剣の柄から手を放す。その顔から、苦渋が消える。

 
 
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