ティアモスの左手がゆるゆると上がる。灼熱色の円盤が次第に色を薄め、元の白い輝きに染められていく。意志ある生き物のように、ティアモスの手を従え、壁にある闇に向かう。音もなく、穴に吸い込まれる。
ディルフェルの壁が、狂おしい光を放った。この世に存在する全ての色が、ほんの一つ息を吸い込む間に瞬き、そして、消える。色も、その色を放ったディルフェルの壁も。
崩れたわけではない。開かれたわけでもない。ただ、消えた。
「――ふっ」
死したまま立ち尽くすティアモスの影で、ガーダが蛇の舌音のような息を漏らした。無防備な空間が、錆色の衣を誘う。極めて小さな空間。伝説の何がしかが眠るような大きさはない。かと言って、地下へ潜るような階段も見受けられない。予期したものはなかった。が、予期せぬものがそこにはあった。鮮やかなリルの石で作られた台座。そしてその上を覆いつくさんと咲き乱れる、フランフォスの花。
床に転がるランプの明りが仄かに揺れる。そのたびに、白く可憐な花びらが震える。そこだけ時を忘れたかのように、そこだけ時が存在しているかのように。初春の朝の、あるいは晩秋の午後の、透き通るような空気がたゆたっている。
唐突に、気が乱れる。嵐が来る。散り散りに花は空を舞い、はらはらと床に落ちた。ガーダの左手が、なおも無慈悲に花を薙ぎ払う。台座の上に、こんもりと土くれのようなものだけが残される。ガーダの口元が歪んだ。
「やはり、器はもう駄目か」
ガーダは土くれに右手を突っ込んだ。乱暴に弄り、やがてもそもそとそれを引き出す。
あれは、何だ――?
ガーダの右手に握り締められたものに、ロンバードは目を凝らした。赤黒い、小さな塊。一見、肉の塊のように見える。よく見ると、表面が網目のようになっている。単純に絵のような模様なのか、それとも、文字通り網がかけられたようになっているのか。
あれは、何だ――?
ガーダの左腕が、すっと横に伸びた。ロンバードの鼓膜を、激しい物音が打つ。それは、ティアモスが再び地に伏した音だった。床に大きな血溜まりが広がる。喉元の剣はもうなかった。剣は自らティアモスを離れ、空を飛び、ガーダの伸ばした手の中にすっぽりと収まった。ひらりとガーダの手首が返る。たっぷりとティアモスの血を吸った剣先が、右手にあるものの上に来る。
ぽとりと血が落ちる。さらに一つ。さらに二つ。
ドクン……。
赤黒い肉の塊が脈打つ。ロンバードは目を見張った。
動いて、いる――?
ドクン……。
まただ――。
ほんのわずかだが、規則正しい律動が、赤黒い肉の塊の上で起こっている。
「ふっ、生きの良いことよ」
冷たい音色を含んだ声でそう吐くと、ガーダは動いた。錆色の衣が、ロンバードの視界を大きく占める。緑がかった褐色の肌。秀でた額。その下に、不気味に光る大きな赤い目。
急にその目が細くなる。強く右手をつかまれる。その手に何かを押しつけながら、ガーダは笑った。空気が漏れるような擦れた音が、歪んだ口から流れ出る。音は徐々に強さを増し、反対に口元は薄く闇に滲んでいく。
消え――た――?
ロンバードの膝が崩れた。突然の解放に、全身から力が抜ける。そのまま膝をつき倒れ伏すところを、咄嗟に手にあったもので支える。右手に握り締められていたもの。ガーダによって握らされたもの。それは、己の剣だった。ティアモスの血に塗れた、己の剣……。
「閣下!」