蒼き騎士の伝説 第二巻                  
 
  第九章 シャンティアムの谷(1)  
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 キリートム山を離れてから十八日。大きなアクシデントはなかったものの、一瞬たりとも気を抜くことのできない旅は、かなりの疲労を伴った。時には夜を徹して先の町へ急いだこともあった。アムネリウス騎士団、ロイモンド騎士団が、フィシュメルとの国境の村、リバに達したという噂を耳にした時だ。その後、どうやら噂が間違いであることが分かり、ほっと胸を撫で下ろしたのだったが。
 もう少し、じっくりと時間をかけて情報を集めたなら、そんな失態はなかったかもしれない。しかし、急ぎの旅ではそうもいかない。聞きかじった噂に一喜一憂し、惑い、焦りながらの日々であった。
「ですが、ここからが問題です」
 ロンバードの額の皺が、より深くなる。
「何としてもレンツァ公を説得し、陛下の元へお連れしなければ」
「それほど難しい方なのですか? シオ・レンツァ公は」
「人は良い方なのです。極めて高貴なご身分でありながら、分け隔てなく下々の者に接する。ですが、少しばかり変わった考えをお持ちで。なにしろ若くして、このような場所に隠居を決め込んでしまわれるのですから」
 ほとほと困ったという表情で、ロンバードは言った。
 聞いたところによると、キーナスの爵位は五段階に分けられるそうだ。下からビヨン、ジャヌール、パド、フルワン、そして最高位のダーがある。このうち最も下のビヨンは別名トルトム(キーナスの言葉で露店を意味する)と呼ばれ、時に売買の対象となっていた。貧乏貴族が裕福な商人に爵位を譲るといった現象が、この位で起きるのだ。もともとこの爵位を持つ者は平民出が多く、歴史も浅い。それ故、位にこだわりがないのであろう。
 しかしその上位、ジャヌール、パド、フルワンにおいては、位はより強固となる。キーナス建国の折から脈々と受け継がれた血を、彼らは今も守り続けているのだ。だがその高い身分は、あくまでもキーナス王の元に約束されたものだ。王の庇護なくして、それは成り立たない。しかし最高位、ダーは違う。身分的には王の下に位置するが、王の干渉、支配を受けない爵位なのだ。
 では、ダーの位を持つ者が王に次ぐ、あるいは匹敵する力を有しているのかというと、答えは否だ。それぞれの爵位を持つ貴族はその階級に応じた領土を所持している。が、ダーの爵位を持つただ二つの貴族、レンツァ家、ピュルマ家は、決して大きいとはいえない館と、その館を取り巻く小さな土地があるのみだ。少しばかり羽振りのいい商家の方が、まだ広い土地と家とを所有している。
 ならば特別に、何某かの権利が約束されているのかというと、それも違う。政治的な権限は一切持っていない。にも関わらず、彼らは王に、特別な存在として一目置かれている。王だけではない。キーナスの国民全てが、彼らに対して深い敬愛の念を持っているのだ。
 その理由は、両家の起源にあった。今はもう存在していないといわれる、伝説の種族エルフィン。その最後のエルフィンと懇意にしていたと伝えられる、セフラム村の娘シュレンカ。人との交流を望まないエルフィンの心を、唯一人開くことができた娘。レンツァ家もピュルマ家も、そのシュレンカを先祖に持つのだ。エルフィンに対する畏怖と尊敬そのままに、キーナスの人々はこの両家を愛した。
 実際、この両家は魅惑的な者が多かった。画家、音楽家など芸術的なものから、教師、学者、医者、さらには騎士など、多岐の分野に渡って代々優れた人物を輩出した。そんな彼らに共通するのは無欲さ。多大な才はあっても、決して金や権力を欲しない。長い歴史の中、不出来な者があっても不思議はないのだが、少なくとも民衆に、あるいは国に害を成すような輩を過去一人も出していない。エルフィンに選ばれし者、今なおエルフィンの加護の元にいる者。キーナスの民は、そう見ていた。ダーの爵位を有する者、すなわち、シオ・レンツァ公を。
 エルフィンの力の効果は置いておくとして、そのような無欲の性質であれば、若くして俗世間を離れるのも分からなくはない。この美しい風景を目の前にした今、その選択はむしろ自然に感じるほどだ。ここに移り住んだ事だけを指して、変わり者云々と評価するのは少々気の毒だろう。
 ただ一つ心配なのは、この穏やかな時の流れに包まれているうちに、外の世界へ通じる扉を見失ってはいないかという事だ。清濁併せ持つ現実の世界。人の住む世界とはそういうものだ。たとえこのような地に居を構えたとしても、しっかりとそれを見据えていなければならない。人であるなら、人として生きるのであれば――。
「行きましょう」
 心の内に浮かんだ不安を打ち消すように、きっぱりとミクは言った。
「シオ・レンツァ公の元へ」
 緩やかに、馬車が滑る。草の波が輝く。どこか誇らしげな船形の屋根が、次第に大きくなる。
 正面から吹く風が、ミクの頬を圧した。見えない扉を強引にくぐり抜けるように、馬車は進む。
 自分達の来訪は歓迎されるのか、それとも拒絶されるのか。
 シャンティアムの船を見つめながら、ミクは自問した。その答えは、すぐそこに迫っていた。

 

 
 
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