なぜ、アルフリートが、そんな……。
「それは、どういう――」
言いかけて、ミクは慌てて口を噤んだ。訝しげな表情で見つめるシオから視線を逸らす。傍らでは、おそらく同じ表情でロンバードも自分を見つめているだろう。
聞こえてきたレンツァ公の声が、耳から入ったものではないことに気付くのが遅過ぎた。だが、正直今のは無理からぬ事態だ。こんなにはっきりと、人の心が聞こえてきたことなどこれまではなかった。それなりの力は自分でも意識していたが、もっとぼんやりと、曖昧なものだった。そもそも、声として聞こえるなどというのは、初めての経験だ。
「失礼、よく聞き取れなかった。もう一度おっしゃってはくれませんか?」
シオの声が、今度は耳を通してミクの脳に入る。特に含みは感じられない。胸の内の動揺を、悟られた気配はない。自分の不用意な発言は、その前の会話の延長として処理されたようだ。ならば、それに乗らなければならない。ミクは慎重に言葉を繰り出した。
「ですから……それは、どういう……ものなのか。そう、スティラの約とは、どういうものなのかということです」
「これは異なことを」
シオの口元に皮肉めいた微笑が浮かぶ。
「そなたはご存知ないのか? 約の話を持ち出したのは、そちらの方だというのに。いや、正確にはロンバード殿でありましたな。ちょうどいい。私も同じ質問をしようと思っていたのです。何分、幼少の頃の話ですからね。何やらいろいろと約を交したようにも思いますが、詳細までは。はてさて、スティラの約とはどのような約であるのか、ロンバード殿にご説明願いたい」
「それは……」
ロンバードは口篭もった。両の拳を握り締める。その側で、ミクは唇を噛み締めた。結果的に、あの一言が流れを変えてしまった。もう手元に駒はない。切り札には何の力も残っていない。肩を落とし、呟くように答えるロンバードの声を、ミクは俯いたまま聞いた。
「私は……存じません」
「知らぬ――とな?」
「はい」
「では、何のことだか分からぬものを、私に果たせとおっしゃったのか?」
「その通りです。陛下はただスティラの約と、それだけを告げれば良いと、そう仰せられて」
「ふむ……」
シオは一つ頷くと、また押し黙った。笑みは消えていた。だがその方が、却って穏やかに見える。微笑に含まれていた刺々しさが消えた分、本来の優しい顔立ちが生きてくる。ミクとロンバードの胸に、小さな希望の芽が頭をもたげる。しかし、発せられた言葉は期待に添うものではなかった。
「それでは、話になりませぬな」
全てが終わったような空しさが、二人の心を占める。懸命に抗い、自らを奮い立たせようとするが上手くいかない。レンツァ公という巨大な壁を、打ち砕かんとする意欲が湧かない。方法が見つからないのだ。理詰めでも、情に訴えようとも、レンツァ公の気持ちを動かすことは難しく思える。
結局、長い沈黙を破ったのはシオの方であった。
「お二方ともここまでの長い旅路、さぞお疲れのことでしょう。ご覧の有様ゆえ、大したもてなしはできませぬが。今宵はごゆるりとおくつろぎ下されますよう――ティト」
奥の部屋で控えていたティトが、すぐさま顔を出した。一部始終をその小さな耳で聞いていたのであろう。先ほどとは打って変って神妙な顔つきだ。
「お二人を、二階の部屋へ案内してくれ」
そう言うと、主はふいっと奥に引っ込んでしまった。気まずそうに、上目遣いでティトが言う。
「こちらです、どうぞ」
扉を挟んで押し問答をしていた時とは異なる物言いに、改めて完敗を自覚する。全身に、疲労を感じる。足を引きずるようにしながらティトの後に従い、それぞれの部屋に入る。頭の芯から溶けていくような感覚を、ミク達は抑えることができなかった。
ゆるゆると、部屋の扉が閉められる。二人の意識は、深い眠りへと落ちていった。