蒼き騎士の伝説 第二巻 | ||||||||||
第十章 獅子の行方(4) | ||||||||||
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なんで、戻ってきた――。
シオの心の呟きが、またしてもミクの心に直接響く。だが、最初ほどの衝撃はない。あの時は声が聞こえたように感じたが、実はそうでなかったことも理解する。声であれ、文字であれ、意味ある言葉として認識する過程を、ちょうど逆に回すような処理が自分の中でなされていた。形を持たず飛び込んできた言葉にレンツァ公の声を宛がったのは、自分自身であったのだ。
なぜ、そうしたのか。そう判断できたのか。そこまでの仕組みは分からない。ただその言葉に、その意識に、はっきりと彼を感じることができた。だから自分の脳は、それにレンツァ公の声という枠組みを与えたのだ。
そこまで冷静に分析し終えると、ミクは階下へと足を進めた。不機嫌そうな顔に切り替ったシオとは対照的に、モジェはまだ口を半開きにしたままミクを見つめていた。
すっきりとした輪郭線を持つ淡緑色の衣が、細身の体によく似合っている。白く透明な肌と相俟って、それは凛とした気高さを醸し出していた。声と同じく冴えた色を持つ翠の瞳は、理知的な光を湛えており、こちらの心を見透かすかのようだ。そして、その燃えるような赤い髪。束ねることもできぬほどの短さは、正直奇異に感じるが、それが彼女の美しさを損なうことはなかった。むしろ、逆の働きを為している。その美を強く主張する役割を、果たしている。
「……シオ・レンツァ殿……」
目の前に来るまで、言葉なくミクを見送ったモジェが、やっと声を出す。
「こちらの……ご婦人は?」
「あぁ――彼女は……」
溜息まじりに言葉を濁すシオに代わって、ミクが答える。
「妻です」
「えっ!」
感情が、そのまま大きな声となってモジェの口から飛び出した。レンツァ公の年齢を考えればそれほど不思議はないのだが、全く予想だにしない答えだった。
こと女性に関して、あまり良い噂をレンツァ公は持っていない。服を変えるように女を変える。サルヴァーン城ではそう囁かれた。隠居の身となってからも、入れ替り立ち替り、新しい女が谷を訪れているとの話が街まで流れてきた。
そのレンツァ公がこれほど早く身を固めるとは、いかなる気紛れによるものなのか。いや、さにあらん。それだけの相手が現れたということなのだろう。
その時、モジェの思考の全ては、自身の感情のみに集中していた。それゆえ、あることをみすみす見逃した。自分に負けないくらいの大きさで、シオが声を発したことを。目を見開き、驚きの表情を浮かべたことを。それらに気付かぬまま、モジェは言葉を連ねた。
「そうでしたか。ご結婚をなされていたとは。それはおめでとうございます。して、奥方様は、どちらの?」
「オアパーダ国の者です」 ミクが口篭もる前に、すかさずシオが答えた。
「名はエトゥ・ガリアデル・レンツァ」
「なるほど、ユジュール大陸の方でありましたか。どうりで、存じ上げないはずだ。これほどの美しい方であれば、国中の噂になってもおかしくはありませんからな。なるほど、なるほど」
モジェが一人納得している間に、シオは軽く睨むような視線をミクに送った。口端を少し引き上げて、それを跳ね返す。レンツァ公が言わんとするところは、全て分かっている。だが、もう遅い。それに、こちらもこの選択しかなかったのだ。剣を抜き、階下へ戻ろうとしたロンバードを押しとどめるには、これしか。
「では、エトゥ・ガリアデル・レンツァ様。ご足労ですが、ご一緒にブルクウェルまでお越し下さい」
「はい」
憤然と大きく息を吸い込むシオの横で、ミクは答えた。ブルクウェルの偽王がレンツァ公に何を求めているのか、あらかた見当はつく。彼を思いのまま動かす手枷足枷となるのだ、自分は。レンツァ公にしてみれば、まだ一人の方が何らかの策を講じやすいのであろう。でも……。
モジェに促され、ミクは先に立って歩いた。そっと手でドレスを抑える。柔らかな布地の下の、堅い感触を確かめる。右にあるのはレイナル・ガン。左にあるのはパルコム。
チャンスは、必ず来る。
ミクはそう思っていた。そしてそれは、レンツァ公から離れているより、共に囚われ人となる方が、より確かだと判断していた。並みの女であれば足手まといであろうが、自分は違う。それに、もう一つのチャンスのためにも、レンツァ公の側にいる必要があった。説得は、まだ終わっていないのだ。
目の前で、モジェが扉を開ける。視界にずらりと並んだ騎士達が映る。外へ出たミク達の頬を、風が掠めた。屋根の上に覆い被さる木々の梢が、それに呼応するかのようにざわめく。その音が、遥か彼方、林の向こうに遠のいていくのを背中で聞く。
安堵の笑みが一つ、ミクの唇に浮かぶ。その横で、シオの口元もほんの少し緩む。互いにその表情を気配で感じながら、二人の囚われ人は静かに谷を後にした。