ミクは目を見開いた。
えっ――?
聴覚とは違う場所で知覚した言葉。そんな心の内の言葉を問い質すわけにもいかず、ただシオを見つめる。そのシオが、唐突に動いた。銀の房髪とミクの赤い髪が、微かに触れる位置まで近付く。
「一つ、あなたに頼みがある」
そう耳元で囁いたシオに、ミクは小声で返した。
「頼み……とは?」
「怒って下さい」
「……はい?」
「静かに。声が大きい」
シオはミクの右腕をつかんだ。そして部屋の北端に引き寄せる。
「とにかく怒って下さい。いいですね」
「そんなことを……言われても」
「そう、怒るな」
急に張りのある声でシオが叫んだ。
「私とて、そなたをここに置いていくのは辛いのだ。分かっておくれ、愛しき妻よ」
朗々と、謳い上げるように語り、ミクに目配せをする。
「……あ――え……?」
「そんな顔をするな。せっかくの美人が台無しだぞ」
ミクではなく扉に向かってそう言うと、シオは左手を煽るように回した。どうやらここで、何か言えという意味らしい。おそらく外にいる見張りに対しての芝居なのだろうが、全くその意図が分からない。分からないまま、取りあえず声を張り上げる。
「私は……ええ、私は、怒っているのです。そう――怒って。そのような事……ああ――」
「下手だな」
猫のように音を立てず忍び寄ったシオが、また耳打ちをした。
「もう少し自然にできないのですか?」
ミクは細い眉を吊り上げた。
「何の理由もなく、ただ怒れと言われても。できるわけがないでしょう」
「――ふむ、理由ねえ」
シオは、ミクのすぐ後ろにある飾り棚に目をやった。その上に置かれている壷に手をかける。鶯色の地に、繊細な金細工が施された見事な品だ。
「惜しいな。だが、仕方がない」
吐息に乗せてそう呟くと、シオはその壷を勢いよく床に叩きつけた。
「――なっ!」
「これ、何をする」
シオがまた大声を出す。
「ここは我が家ではないんだぞ。そう癇癪を起すな」
「かっ、癇癪?」
「ああ、だから止めろと。そなたには分からんかもしれんが、それはバラモア・ダヤという名工の――」
そう叫びながら『それ』を手にしたのはシオだった。壷と同じく、飾り棚の上に置かれていた見事な燭台。二つ揃いになっているものの一つを手にする。バラモア・ダヤなる者は知らないが、その人物が名工である事はミクにも十分理解できた。ふっと蜀台の明りが吹き消される。ほんの少し翳ったシオの顔に笑みが浮かぶ。次なる行動を予想し、思わずミクは大声を出した。
「止め――」
ミクの目の前を、燭台が弧を描きながら飛んだ。派手な音を立て、壁に散る。続けざまに、もう一つが同じ運命を辿る。
「ああ――」
シオは大声で、ミクは心の中で溜息をついた。
「何てことを……」
そう大げさに嘆くシオの姿を追いながら、ミクは激しく首を横に振った。床には、無残に砕け散った燭台が、その部屋に残されたただ一つの明りに寂しく照らされている。寝台のそばにある、最も細やかで美しい飾りの施された燭台。シオの手は、すでにそこに伸びていた。
「公――」
ミクの声に、自然と怒りに近い感情が含まれる。わけの分からぬ行動に、これ以上付き合う気にはなれない。
「いい加減に――」
「おお、愛しき妻よ、もう止めておくれ」
「それは、私の――」
台詞です!
という言葉を、ミクはのんだ。シオの行動が、ミクの予想と違っていたからである。シオの手には、例の燭台があった。しかしそれは空を飛ばなかった。代わりに上下運動を繰り返す。シオは燭台を高く翳しては、それを腰の辺りまで下げるという動作を、何度か重ねた。
これは?
ミクはシオを凝視した。その視線の先を追う。左端、やや上方に、例の小さな四角形の窓。そこから、闇色の空が覗いている。
何かの、合図?
シオは燭台を高く掲げたまま、ミクとは反対側の、扉のある壁に立った。
「いい加減にしないか」
大きな声を後ろ向きに投げ掛けながら、ミクに掌を向け、押し止めるような仕草をする。
前に出るな、ということか。
ミクは飾り棚に半ば腰掛けるようにして、限界まで下がった。シオは頷くと、また声を張った。
「その手に持っているものを、とにかく下ろしなさい。そしてちゃんと私の話を――」