蒼き騎士の伝説 第二巻                  
 
  第十一章 義と約と(3)  
         
 
 

 この最大級の難問を前にして、ミクの明晰な頭脳は一時的な麻痺を引き起こした。レンツァ公の言葉が、無限のループとなって回り続ける。取っ掛かりすらつかめずに、ただ固まる。と、不意にその緊張が解ける。部屋の灯りが消され、今までとは異なる光景が、目の前に柔らかく広がる。
 冴えた瞳に映し出されたのは、あの小窓から見える景色だった。すでに日はどっぷりと落ち、全ては闇色に染められている。だが、まるで光がないわけではない。星、月、さらにはこのシュベルツ城から漏れ零れる明りが、闇にくっきりと裏山を浮かび上がらせている。すっと筆を走らせて描いたような輪郭。墨絵を思わせる多彩な濃淡。
 目を閉じてもなおその情景が残るような、強い刺激はない。忘れがたい印象として、細部まではっきりと思い出せるような、際立ったものは何もない。だがいつでも、いかなる場所においても、その姿を呼び起こすことで心が癒される、そんな風景。自らの中の全てを、何の飾りも嘘もなく表してくれるような、そんな景色。
 なるほど。
 ミクは思った。
 まるっきりでたらめを言ったわけでは、なかったのか。
「もう――」
 シオの甘い声が続く。
「許してくれるね。愛する妻よ」
「ええ」
 ミクは窓辺に立ちながら、穏やかな声で言った。片手を出す。山に清められた空気が、慎ましくその手に触れる。
「私もあなたを愛しています。心から、あなたのことを――」
「……くうぅ、ぐぉぉ……」
 耳障りな雑音。一瞬で、ミクは心の深淵に沈めた意識を、その水面まで引き戻された。後ろを振り返る。やたら楽しそうに表情を崩して、シオはなおも騒音を出した。
「……ぐぅ……スウゥ……」
「呆れた人」
 苦もなく感情を言葉に乗せる。もはや怒りの演技は、ミクの範疇にあった。
「さっさと自分だけ寝てしまうなんて」
 ドン――と、言葉の最後に床を踏み鳴らす音を添える。そしてそのまま息を殺す。髪の毛一本落ちる音さえ捉えんとするかの如く、神経を集中させる。かなりの長い時が、ゆっくりと流れた。扉の外で、小さな音が動く。
 足音――。
 やはり見張りが、聞き耳を立てていたようだ。だがもうこれ以上、面白い話は聞けないと判断し、少しずつ遠のいていく。その音が止まる。多分、階段の辺り。そこから動く気配はない。
 互いに目を見合わせる。窓辺に近いミクの方が先に動く。軽く床を蹴り、ロープに渡した棒を胸元に引き寄せる。ちょうど逆上がりをするようにして、窓のへりに足をかける。シオが後ろから補助するように背中を押したが、その力に頼ることなく、ミクは勢いよく体を滑らせ、窓の外に飛び出した。
 ミクの周りを、透明な風が吹き抜けていく。徐々に速く、徐々に強く。絵のようだった景色が近付くにつれ三次元化し、迫り来る。スピードに乗る。視野が狭まる。一点となる。
 衝撃に備え、ぐっとミクは体を丸めた。が、予期したそれはなかった。大木に、したたか体を打ち付けることを覚悟していたのだが、意外なほど柔らかな感触でミクは受け止められた。
「大丈夫ですか?」
「……ロンバード……?」
 ミクは自分を抱きかかえている、がっしりした人物を見上げながら言った。
「まさか、あなただったとは……一体、いつ、レンツァ公とこの作戦を?」
「少しお待ち下さい。ミク殿」
 ロンバードはそっとミクを地上に下ろした。
「詳しい話は、レンツァ公がいらした後で」
 ミクは頷き、ロンバードと共に塔を見やった。
 大木の幹に括り付けられたロープは、ほんのすぐ側までしか確認できない。先は、塔の色と、夜の闇の中に紛れてしまっている。こうして見ると、かなりの距離だ。二百メートル、いや、もっとありそうだ。ただ飛ばすだけでも大変な距離を、あの小さな窓から漏れる灯り一つを頼りに、射抜くとは。
「それにしても、あなたがこれほどの弓の使い手とは、知りませんでした」
「いえ、私はほとんど弓の心得がありません」
「では、これは――あっ」
 その時、前方の闇にわずかな変化が起こった。最初それは、仄白い鳥のように見えた。翼を広げ、まっすぐにこちらに飛んでくる。ほどなく鳥は、人型へと姿を変える。純白の薄衣が、水の中を漂うかのようにゆったりとはためくさまは、あたかも天上人が舞い降りるかのようだ。
 ミクを受け止めた時のように、ロンバードは大きく腕を広げた。そこに天の使いが飛び込む。

 
 
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