蒼き騎士の伝説 第二巻                  
 
  第十三章 ビルムンタルの沼(1)  
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 <ビルムンタルの沼>

      一  

「できればやつを避けて通りたい」
 テッドを背から下ろしながらオラムは言った。
「ジアヌは音に反応する。なるべく静かに歩け。ここから先は、声も出すな」
 キリートム山を発ったのは今朝早く。暗くなる前に沼を渡りきるために、オラムにおぶさった状態で山を下りた。予定通り、日はまだ高い。だが日差しは雲に遮られて、その威力を半減させている。雨を呼び込むような低い雲ではないが、当分晴れ間は望めそうにない。
 テッドは地に降り立ち、辺りを見渡した。朧な光の中で、沼は質の悪い水晶を通して見るかのように、鈍い色彩を放っている。ところどころ見える地面は当然のごとくぬかるんでおり、水面よりわずかばかり彩度を落とした暗い灰色をしている。少し先に目をやるだけで、その差は薄れ、一体となり、陸と沼との区別がつかない。加えてここかしこに生い茂っている葦のような草が、より一層足元を危うくしていた。しかもこの葦は、もう一つ問題を抱えていた。場所によっては、テッドの腰の辺りまで伸びている。時期的なものか、この草の特徴なのか、まるで枯れたかのように乾燥しているため、掠めただけでやたら大きな音を立てる。
 最初の一歩を踏み出した格好のまま、思わずテッドは動きを止めた。その肩に、オラムの手がかかる。
「できる限り、茂みは避けろ。止むを得ない時は、その際を進め。手で押しのけるのではなく、こう足で――」
 そう言うと、オラムはその太い足をそっと茂みに差し入れた。ゆっくりと地を踏みしめる。と同時に、葦の葉を水辺の方にじわじわと倒す。風に煽られた時に奏でるようなささやかな音を残して、葦はオラムに一歩進むことを許した。
「見事なもんだな」
 テッドが囁く。
「どうせなら、ここから先もおぶってってくれると、ありがたいんだが」
「無理だな」
 小声でオラムが答える。
「この辺りはまだいいが、もう少し進むとぬかるみがもっと酷くなる。ぐずぐず歩いていると、沼に足を取られてしまう。自分の重さだけで、手一杯だ」
「そりゃあ、残念だ」
 大げさに肩をすくめてテッドは言った。
「じゃ、先に念を押しておこう。俺のせいでジアヌが襲ってきても、恨むなよ」
「その覚悟は、もうできている」
「――って、おい」
 すでに二歩目を踏み出したオラムの後を追って、テッドはそっと足を運んだ。オラムが示したようにじわりと草を踏む。一度オラムに倒された草は、ごく控えめな音だけ発し地に伏した。
 こいつはいいや。ちょいと歩幅があるのが難点だが、これなら何とか。
 大きく足を踏み出し、テッドはオラムの足跡を忠実に狙った。案の定、今度もうまくいった。が、姿勢がよくなかった。後ろ足がわずかだが泥に取られたのも影響した。意に逆らって体が斜めに傾く。
「……っと」
 派手に倒れこもうとする既のところで、テッドの体は止まった。強くつかまれた腕が、勢いよく引っ張られる。いつもに増して高い位置から見下ろすオラムの目に、テッドはむっとした表情を見せた。
「覚悟があるなら、こんな面倒な歩き方しないで堂々と進もうぜ」
「何を言ってる。がさがさ音を立てて歩いては、こっちが相手に気付かぬであろう。不意をつかれては、まず勝ち目はない。もう行くぞ。しっかり付いてこい」
 へ〜い。
 渋々心の中でそう答え、前に進もうとしたテッドは動作を中断した。空くはずのスペースに、まだオラムの足がある。
「一つ、大事なことを忘れていた」
 そう言って、オラムが振り返る。
「もしもジアヌが襲ってきたら、お前はじっとしていろ。私が一撃で倒す。だが、仕損じた場合は、その時は逃げろ。お前はそのまま先へ進め」
「逃げろって、そんな――」
「道はちゃんと覚えているだろうな。そのために、事前に教えた」
「まあ、それは覚えているが」
「ならいい」
「いいって、そうは――」
 テッドはオラムの腕をつかんだ。びっしりと生えたラグルの黒い体毛は、見かけほど硬くない。特にオラムは毛並みが良く、テッドの手に心地良いくらいの刺激を与えた。だが、その下の筋肉は違う。ぐりっとした強い感触が、あっという間にテッドの手を弾いた。
「一人で歩けと言ったろう。私につかまるな」
「だから、そういう意味じゃな――って、おい」
 テッドの言葉がオラムの背に届いた時、すでに彼女は二歩前進していた。さらに一歩。すぐに一歩。
「置いてく気かよ」
 小さく愚痴を吐きながら、オラムが踏み締めた跡を追う。倒された草が水面に沈む。波紋が沼の表面を滑る。慎重に、注意深く、静かに。
 テッドはこの単純かつ困難な課題に、全神経を集中させた。空を覆う雲が徐々に千切れ、凄まじい速さで駆け抜けていくのも気付かぬほどに。

 

 
 
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