蒼き騎士の伝説 第二巻                  
 
  第十三章 ビルムンタルの沼(2)  
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「おおおぉぉっ!」
 奇声が上がる。銃とジアヌの間を割って、オラムが斧を振り回す。テッドの指が辛うじて、踏み止まる。
「おい、そこをどけ!」
 だが、その声が聞こえないのか、オラムはジアヌにそのまま突進した。ふっとジアヌの体が沼に沈む。素早くその場を離れ、まるで点移動したかのように、やや遠巻きに、オラムの背を望む水面に姿を現す。振り上げられたオラムの斧の下に、もうジアヌはいない。にも関わらず、彼女の斧は水面を引き裂いた。何度も、何度も、繰り返して。
「――オラム?」
 オラムの攻撃は止まらない。ただがむしゃらに、斧を振るう。膝までつかった泥濘が邪魔をするのか、その足元がおぼつかない。ふらふらとよろめきながら、それでも水面を叩き続ける。
 おかしく……なってやがる――?
 テッドはそっと沼へ一歩踏み出した。
 あの音が、オラムの思考を狂わせているのか? それとも、可聴範囲外の超音波が、あの中に含まれていて。それで、それが……。
 再び銃を構え直す。
 しかし普通、音波だけであんな風には。いや、普通じゃないのは、やつの再生力だ。確実に、頭を破壊しなければ。
 自分の勘を信じて、一つに狙いを定める。距離を取りながら回り込み、顔の真正面に立つ。二つの鼻腔のちょうど中心。銃口が、ぴたりとその目標を捕らえる。
 ――が。
 テッドの銃はまたしても、その役を果たさなかった。まるでさらさらと滑る砂の中に埋もれゆくかのように、自分の腕が斜めに流れていくのをテッドは見た。目に映る全てのものの輪郭がぼやける。二重に見えるジアヌが、さらに三つ、四つと増えていく。
 テッドはバランスを失った。左膝ががくんと折れる。はずみで俯く。視界いっぱいに、濁った沼の水が広がる。ぐるぐると渦を巻き、その中心が陥没し、逆に膨れて、せり上がって。
 体が後ろに倒れそうになるのを感じ、テッドは右手をついた。飛沫が上がる。そのまま空間に浮遊する。細長く姿を変え、一つ、二つ、もっと、無数の……。
 心の奥で、激しい震えが生じる。テッドは矢に囲まれていた。空間を埋め尽くすほどの氷の矢。その事実をテッドが意識した刹那、矢はいっせいに襲いかかった。
「うわあぁ!」
 やみくもに腕を払う。それで逃れられるはずはなかった。その手を、その体を、鋭い矢が粉々に引きちぎるはずだった。
「うぅっ……」
 低く呻きながら、テッドは立ち上がった。麻痺してしまった感覚を、壊れてしまった意識を切り捨て、残る力の全てを振り絞っての行動だった。
 これは、幻覚だ。音じゃない。おそらくはこの水。何らかの幻覚物質を、あの無数の鰭を擦り合わせて分泌し、この中に。
「ここ……から、出るんだ……オラ……ム……」
 やっとの思いでオラムの側へ行く。すでに力尽きたのか、ただ呆然と立っている巨体に身を預け、押す。
「……岸に、上れ……しっかりしろ」
 テッドの声が届いたのか、それとも非現実の世界で何かに導かれでもしたか。オラムの足が奇跡的に動く。だが、その方向は定まらない。テッドはオラムの太い腕を取り、懸命に岸を目指した。その岸辺が、シーソーのように大きく揺れている。バタン、バタンと、音まで出している。
「……ふっ」
 テッドの口から、苦笑の声が漏れた。その響きがシーソーの軋みを消し、別の音の存在を知らせる。ギリギリと不快な、ガラスを擦るような音。
 待ってました……。
 それがちゃんと、声となって外に出たかどうかは分からない。だが、その言葉は魔法のように、彼を一時的に癒した。深い海底に沈み行かんとしていた、テッドの人格を模る意識が全身に満ちる。
 振り向く。腕が上がる。真っ直ぐに目で射る。
「くらえっ!」
 閃光が沼の上を滑る。赤い飛沫が雨のように降り注ぐ。飛び散る肉片が水面を打ち鳴らす。
 テッドはその背でオラムを押し続けた。のたうつ大蛇が徐々に動きを鈍らせる。足の裏に受ける抵抗が、はっきりと強くなる。
 岸……だ――。
 鮮やかな朱色に染まった沼に、ぽっかりと浮かんだジアヌの姿を網膜に焼き付けながら、テッドはゆっくりと崩れた。

 

 
 
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