蒼き騎士の伝説 第二巻                  
 
  第十三章 ビルムンタルの沼(4)  
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「もうよい」
 優しい声だった。ささくれ立った音の谷間に、温もりがあるように感じた。
「それは何も、人に限ったことではない」
 頬に一筋、熱いものが流れて消えるのを意識する。静かな声で、ガーダが言った。
「犯した罪は、償うことができる。人間の罪は人間が、ガーダの罪はガーダが、そして……」
 枯れた声が、そこで止まった。次なる言葉をテッドが促す。
「――そして?」
 しかしガーダは小さく首を振った。そして大きな赤い目を伏せる。
「いや、何でもない。時が来れば、自然と見えてくることだ。それより今は、私の罪を償おう。お前の望みを叶えてやろう」
「望みを、叶える?」
 テッドはその言葉を、二つの空間に分けて発した。前半は、ビルムンタルの沼地にあるガーダの塔で、後半は、キリートム山にあるラグルの住処の一室で。
 床に転がるオラム。腕を組み、座したまま船を漕ぐジュカス。そして、微かに音を立てている寝息が、辛うじて命を繋ぎ止めていることを示すアルフリート。
「これも――ガーダの力」
「お前も持っている力だ」
 そう言いながら、ガーダはアルフリートの側に歩み寄った。枯れ枝のような手を、爛れ膿んだ顔の上に翳す。その手の内に、光が満ちる。
 光の、雪……。
 そう、テッドは思った。ガーダの掌から、はらはらと白い光の玉が、アルフリートの上に注がれる。決して強い光ではない。ふんわりと柔らかく、闇との輪郭が穏やかに滲んでいる。その一つ一つがアルフリートの肌に触れ、そろりと染みていく。繰り返し、繰り返し、光の雪は降り続き、そして奇跡が起こる。
 無残に崩れたアルフリートの顔が、目に見えて蘇っていく。欠けた肉を補い、失われた皮膚を再生すべく、光の雪は浸透する。
 妙な感覚だった。不可思議な、それでいて理にかなった光景。
 アルフリートの肌に落ちた光の雪は、膿んだ傷口をまず癒し、次にごく薄い膜となって張りついた。ほとんど時を置かず、光の膜がはらりと散り落ち、瑞々しい真皮が現れる。光の雪はさらに降り注ぎ、まだまだらな赤味の残る肌を次々と洗った。小さくスパークするような輝きが一つ起こるたびに、肌が一様な透明感を帯びていく。薬や器具を何一つ使わないこと、加えて時間の概念を無視さえすれば、それはテッドが行う治療と何ら変わらなかった。
 不意に、強い脱力感に襲われる。アルフリートの命が救われたことに対する安堵感。自分はそのことに無力であったという虚無感。一通り、それらの想いを過ぎると、今度はうすら寒いものを感じる。
 ガーダは人間のことを、囚われ人だと言った。己の肉体に閉じ込められたままの、その肉体だけを支配している者だと。だが本当に人は、自分の体を支配していると言えるのか? このガーダのように、細胞の一つ一つまで意のままに操ることなど、誰ができる? そこにどんな傷があろうと、どんな病が潜んでいようと、細胞のレベルで復活を果たす力があれば、それは、不死身を意味する。そうなれば、もう人ではない。生き物ではない。死することのない者、それが、ガーダなのか――?
「違うな」
 冷えた声で、ガーダが振り返った。いつの間にか、その手から雪は止んでいる。
「無限に復活させることは不可能だ。肉体であれ、物であれ、死はある。我らの力でも、死したものを蘇らせることはできない。死したものに止まり続ける力もない。ごくわずかな時に限るのなら、それも可能だが」
「止まり続ける、力――?」
「生は肉体だけにあらず、意識もまた命の片割れ。そしてこれも、不滅ではない。お前達と何ら変わらぬ。この命も、この力も」
「――変わらぬ?」
 テッドの口元に、虚ろな笑みが浮かぶ。
「根本的に違うだろう、力の質が。それに伴う、命の境が。なるほど、お前さん達にも死というものがあるんだろうが、その境界は人からすれば果てしなく遠い。力にしてもそうだ。質の違いが、そのまま強さの差となる。俺達の限界を越えるほどにな」
「そうやって――」
 ガーダのがさがさした唇が、非対称に開く。
「諦めるのか? 困難な道のりに怖気づいて。お前達の、お前達なりの力を尽くすこともなく」
 錆色の衣が揺れ、それが近付く。
「己の欲するものを、何としても手に入れたいと願う。それが人ではないのか?」
 赤い瞳が、間近に迫る。
「肉体という牢獄を引きずり、それでも前に進む。囚われているからこそ、外の世界を望む。それがお前達の、力ではなかったのか?」
 ガーダの顔が大きく歪む。かさついた肌に、無数の襞ができる。乾いた笑い声が、大きく開けられた口から流れ出る。
「くっ、くっ、くっ。ならばそのまま止まっているがよい。魂の囚われ人として、小さな肉体一つも支配しきることなく、その生を終えるがよい。もっともここでは、その自由すら許されておらぬが」
 テッドの目が、鋭くガーダを射抜いた。嘲笑う表情の中に別の色を見出し、それを問い質す。
「なにが……言いたい?」
 ガーダの顔から笑みが失せる。鮮血のような色の瞳孔が、瞬時に圧縮し点となる。
「塔を探せ。五つの塔を。未来へ続く扉を欲するのなら」
 割れた声が豊かに響き、幾人もの声となってテッドを圧する。
「鍵を探せ。十の鍵を。扉の封印を解き放ちたいのなら」
 鱗のような肌が滲み、ぼやけてくる。
「すでにお前は、そのいくつかを手にした」
 ガーダの体を通して、横たわるアルフリートの姿が見える。
「まっ、待て! どういう意味だ? なにが――」
 霧のようなガーダの姿が空間に溶け入る。
 いずれ、また――。
 その音を、耳で聞いたのか、それとも別の場所で知覚したのか。テッドには判断できなかった。頭の中で、繰り返し声が響く。生まれ持った痣のごとく、言葉が脳に染みついて、いつまでも消えない。
 首を振る。顎を撫でる。頭を掻く。
 アルフリートの傍らにある、小さな丸木椅子を手繰り寄せ、腰を下ろす。
 ここ一ヶ月、彼の指定席であったその場所で、テッドは腕を組み、そのまま石と化した。

 

 
 
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