蒼き騎士の伝説 第二巻                  
 
  第十五章 白き牢獄(1)  
                第十五章・2へ
 
 

 視界いっぱいに広がる蒼の欠片。リルの鉱石で埋め尽くされた、離宮の中庭。深い色、淡い色、少し翠がかったもの、わずかに黄みの差したもの。よくよく見れば、同じ鉱石でも輝きが微妙に違う。さらに欠片の形、その磨き具合、そしてそれらの無限なる組合せで、大地にリルの海が作られている。
 もう、十年以上も前、初めてこの離宮を訪れた時、ウルリクはそのあまりの美しさに大きな溜息をもらした。と、そのすぐ側で、アルフリートも同じ吐息を吐く。石の海と同じ、この世の蒼を全て封じ込めたかのような瞳を、大きく見開いている横顔を見つめながら、ウルリクは理解した。王子も、今日初めてここにいらしたのだと。
 タングトゥバの大戦以後、キーナスとフィシュメルは常に固い友情で結ばれていた。エルティアランという伝説の地を持つキーナスが、他国からの侵略を受けるたび、フィシュメルは盟友として共に戦った。絆は深まり、王家は血の繋がりをも持つようになる。隣国とはいえ、クルビア山脈で隔てられているため、地理的には遠い。それでも両王家は、一なる家族として、たびたび交流の時を持った。マードック王の招きで、このハンプシャープの離宮をウルリクが訪ねたのも、その一環であったのだ。
 後に知ったことだが、その時王子は、オルモントール国との国境の城、サルヴァーン城で五年を過ごした直後であった。体調を崩した王に代わって、一行をもてなすため急遽王都に呼び戻され、そのままシュベルツ城に立ち寄る間もなく、このハンプシャープを訪れたのだ。
 ウルリクより一つ年上の十四歳の貴公子は、勝手の分からぬ離宮で戸惑いながらも、心を尽くしてくれた。一番楽しかったのは、月明かりに淡く輝く、このリルの海を臨むバルコニーでの語らいだった。甘やかな言葉はない。年齢の幼さもあるが、二人ともそういうことには、とんと関心がなかった。夜を徹し、白々と空が明るくなるまで話したのは、国のこと、エルティアランのこと、そして争いを繰り返す世界のことだった。
 今にして思えば、随分と可愛くない少年と少女であった。でも、自分達にしてみれば、それは単に親の真似をしたに過ぎない。話し方や仕草、そういうものを模倣するのが子供の常だ。ただ二人の目には、父親の姿、しかも国の王である者の姿が、いつも映っていた。
 アルフリートと同じく、ウルリクにも母はいなかった。想い出は、たくさんある。物心がつく前に亡くなったアルフリートの母と違って、ニ年前に病で倒れるまで、ウルリクの母はいつも優しく彼女を見守ってくれた。その頃はまだ、よく母の真似をしていたように思う。詩歌を詠んだり、カターナを弾いたり、他の習い事はいつも上の空だったが、母が得意なその二つは、真面目に励んだ。
 しかし、その死をきっかけに、ウルリクは王女らしいことを止めた。幼い弟のこともあり、急に老けこんだ父の役に立ちたいと真剣に思った。フィシュメルのため、父のため、そして将来は弟を、陰ながら支えたいと決意すらしていた。それが……。
 ウルリクは立ち上がり、バルコニーへ続く扉をそっと押した。隙間から、心地良い風が、金糸のようなウルリクの髪をそっと梳き、部屋の中に流れ込む。ふと、現実離れした想像が頭を過る。この扉を開き、バルコニーの縁に立ち、そこから天高く飛び立つ姿を思い浮かべる。
 ウルリクは目を閉じた。
 満天の星、銀の月。闇に溶け入るリルの海。佇むのは幼い私と、頬を少し紅潮させ、夢を語るアルフリート。
「お姫さま。どうかなされましたか?」
「何でもないわ、ノルチェ」
 アルフリートと結婚し、キーナスの国妃となった今も、姫と呼ぶ乳母にウルリクは言った。
「ちょっと昔のことを思い出しただけ」
「想い出でも何でも、お笑いになることはいいことです」
「笑う? 私が?」
「ええ」
 ノルチェは、卓上の食器を片付けながら微笑んだ。目尻にできる深い皺が、誰の胸にも懐かしさを呼び起こす。その優しい笑みに微笑を返し、ウルリクは扉を閉めた。
 春まだ浅い日の夜、この地に逃れてから一度も、ウルリクはバルコニーに出ていない。昔と今では、景色がすっかり違っていた。一点の曇りもなかったリルの海は、今、我が物顔でキーナスの兵士が闊歩している。王の命を受け、アルフリートの命を受け、左右の宮殿に陣取った、キーナ騎士団の兵士達が。
「お姫さま?」
 見る間に顔を曇らせたウルリクを案じて、ノルチェが心配そうに声を出す。
「大丈夫よ、ノルチェ。私は大丈夫」
 この状態を、いつまで保てるのか。
 ウルリクの不安はもう、極限にまで膨れ、胸を突き破らんばかりであった。
 自分は構わない。最悪の場合の覚悟も、もう決めている。でもノルチェや、ダフラン将軍や、自分についてきてくれた人々全てが、その時どうなってしまうのかを考えると、激しい後悔の念に襲われる。逃げるように城を出たことが、間違いであったように悔やまれる。でも、あのまま止まっていては、あの城には……。
 ウルリクは、そっと両手で自分の胸を押さえた。再び瞼を閉じる。縋るものは、もうそこにしかなかった。
 満天の星、銀の月。闇に溶け入るリルの海。佇むのは幼い私と……。
 ウルリクの長い睫が二度揺れて、ゆっくりと開く。菫色の瞳が儚げな光を放ち、ほんのりと色づいた薔薇の蕾のような唇が、震えながら動く。耳に聞こえぬほどの小さな声で、信じる者の名を呼ぶ。
「……アルフリート」
 ウルリクの唇が、確かにそう模ったのを認めると、ノルチェは静かにその部屋を後にした。

 

 
 
  表紙に戻る         前へ 次へ    
  第十五章(1)・2